赦しの十字架(パードン・クルシフィクス)-ピオ10世に免償された十字架

カトリックには、長い教会の歴史のなかにうずもれてしまい、見向きもされなくなってしまった宝物が沢山あります。コンバット・ロザリオ(スイス衛兵公式のロザリオ)生みの親であるリチャード・ハイルマン司祭は、「悪魔が何かを憎むとき、単にそれを人々から隠そうとする」と述べています。信徒に、あまり知られていない赦しの十字架も、そのような宝物の一つです。

この十字架の起源は不明ですが、1904年にフランスの司祭たちが、マリア議会(Marian Congress)にて、ある枢機卿 にこの十字架を紹介したことがきっかけで知られるようになりました。その翌年の1905年、この十字架は教皇ピオ10世によって免償符として公布され、この十字架への献身が奨励されました。

赦しの十字架には、十字架の脇に聖母マリアのメダイ、そして聖ベネディクトのメダイがおかれることもあります。これらの聖具のうち、一つでもあれば悪魔にとって憎むべきものですが、三つを組み合わせることで、悪に対する強力な武器になります。

赦しの十字架の祈りと免償符

赦しの十字架は、、他の免償符と同様、告解後の苦行の軽減を提供するもので、罪の免除を提供するものではありません。免罪ではないので、お気を付けください。私は、一瞬免罪かと思い(これで告解にいかなくてもよい)と軽率なことを考えてしまいました。

16世紀初頭、免償符の正確な意味に混乱がありました。そのため1563年のトレント公会議で他の多くの問題とともに、この問題も明らかにされました。それ以来、免償符は「すでに罪が赦されている罪による、一時的な罰を神の前で免除するもの」と明確に定義されています(『カトリック教会カテキズム』1471条)。

赦しの十字架に、教皇聖ピオ10世は以下の免償を与えています

§ 赦しの十字架を身につける者は、それによって免償を得ることができる。

§ 敬虔に赦しの十字架に接吻することにより、免償を得ることができる。

§ この十字架の前で次の呼びかけのいずれかを行う者は、その度ごとに免償を得ることができる

  • 天にまします我らの父よ、我らに罪を犯す者を我らがゆるすがごとく、我らの罪をもゆるしたまえ
  • 聖マリア、私のために神である主にお祈りください

§ この十字架に、常日頃より献身的信仰をもち、告解と聖体拝領の必要な条件を満たす者は、誰でも、次の祭日に全免償を得ることができる。: 主の五つの傷、聖なる十字架の発見、聖なる十字架の日、無原罪の御宿り、聖母マリアの七つの悲しみの祭日に、である。

§ 死の間際に、教会の秘跡を受けた者、あるいは秘跡を受けることができないと思い、心を痛めた者が、この十字架に接吻し、神に自分の罪の赦しを求め、隣人を赦すものは誰でも全免償を得ることができる。

教皇が言及した祝祭日は以下の通りです。

  • 2/6 (リスボンのみ灰の水曜日の次の金曜日となる)主の聖なる五つの傷の祭日
  • 5/3  聖なる十字架の発見の祭日
  • 9/14 聖なる十字架の日の祭日
  • 12/8 無原罪の御宿りの祭日
  • 枝の祝日の前にある金曜日、そして9/15の聖母マリアの七つの悲しみの祭日

そして、こちらもあります。

1905年6月の教皇の詔書、ルマン修道院長方々様、

枢機卿、そしてマリアン議会様へ

免償省の聖なる修道会の総長様へ

この十字架に敬虔に接吻し、貴重な免償を得る信徒には、以下の意図を視野に入れることをすすめます。

私たちが主と聖母への愛をあかしとすること、私たちの聖なる父、すなわち教皇への感謝の気持ち、自分の罪の赦しを乞うこと、煉獄にいる魂の解放、世界諸国の信仰への回帰、キリスト教徒間の赦し、カトリック信徒間の和解。

1905年11月14日の別の教皇詔書により、教皇ピオ10世は、赦しの十字架にあたえられた免償は煉獄にいる魂に適用されると宣言しました。

なくされた免償符である赦しの十字架

1968年6月29日(聖ペトロと聖パウロの祝日)付けで、パウロ6世は『免償符の手引き書-The Handbook of Indulgences』を出版しました。

その本の冒頭近部分には、こう書かれています。「 新しい手引き書(Enchiridion)に載せられていない、すべての一般的な免償符の付与、および教会正式教義本(Codex Iuris Canonici)の免償符に関するすべての法律は、抑制される…」としています。つまり、新しい手引書に載せられたものを除き、すべての免罪符が取り消されたという意味になります。

2冊のうち、厚い本が第2バチカン公会議以前の「免償符の手引き書」で、薄い本が第2バチカン公会議以降の「免償符の手引き書」です。免償符の数が激減していることがわかります。残念ながら、赦しの十字架は新刊には収録されていません。

しかし一方で、赦しの十字架(他の十字架と同様)、聖母マリアの奇跡のメダル、聖ベネディクト・メダルはいずれも強力な聖具です。聖人への祈りや十字架の前で祈ることには、依然として免償の恩恵があります。つまり、赦しの十字架は、時にあるそれに付属するメダイも含め、大きな精神的な宝物を形成しているのです。それは神からの祝福であり、偶然という名の必然であると私は信じています。

スカプラリオに入れられた赦しの十字架

この十字架を知るきっかけとなったのは、ある司祭が日本から私に送ってくださったおかげです。この十字架について、私はいままで聞いたことがなく知りませんでした。先ほども述べたような、三つの強力な聖具が一つになった十字架は、家族の問題を慢性的にかかえている私をとても力づけてくれました。

また送っていただいた十字架は、カルメル山聖母のスカプラリオに入れられていました。赦免の十字架をどのように身に着けても良いと思いますが、スカプラリオに入れるというのはとても良いアイディアだと思います。得に私のように金属アレルギーがあると、身に着けるときアレルギーの心配をせず身に着けることができ、スカプラリオのさらなる恩恵をいただけるからです。本当に感謝でいっぱいです。

この十字架は、もはや公式な免償符ではありません。それでも象徴的に、主を十字架に携えています。この強力な秘跡である赦しの十字架がより広く、人々に知られるようになることを心より祈ります。

Source for Papal documents: The Pardon Crucifix | Catholicism Pure & Simple (wordpress.com)

聖パトリック:ムイルフ『聖パトリックの生涯』 (2)

ムイルフの『聖パトリックの生涯』は、聖パトリックがアイルランドで最初に洗礼を受けた人物のことを語っています。その人は、豚飼いのディクという人でした。ディクに洗礼を授けた後、聖パトリックは、奴隷として働かされていた主人の家へ向かいました。自分を奴隷にした主人に洗礼を授けようと思っていたからです。しかし、パトリックがそこに着く前に、誰かが奴隷の主人に「パトリックは、今、あなたの主人になるために戻ってきた」と言うようなことを告げていました。奴隷の主人は悪魔にふきこまれ、パトリックが主人になるぐらいなら、と全ての自分のもちものを周りに集め家に火をつけました。そして、自殺してしまったのです。

聖パトリックの預言

奴隷の主人の家についたパトリックは、燃える奴隷の主人の家を見ながらしばらくの間、ただ泣き続けていました。そして奴隷主の家族について、神からの預言を残しました。すなわち、この男の息子たちは、他人を支配するのではなく、むしろ、これから先は他人に服従するという言葉を残したのです。

「私は知らない、神は知っている」パトリックは何度か繰り返しました。これは、決して呪いではなく神からの預言だ、という 意味でした。クリスチャンにとって、自殺は最も深刻な罪のひとつであり、悪魔からの恐ろしい誘惑です。奴隷主は神の救いを拒み、悪魔の誘惑に負け、謙遜するよりも、誰かにこの世の財産を捧げるよりも、死を選んでしまったのです。

私は、この伝説は脚色されているとはいえ、もしかしたら事実だったのかもしれないと思います。よくある奇跡の物語ではないからです。救いをもたらそうとしたパトリックが、ただ泣いていただけであり、奴隷主の家族は神から暗い未来の預言を受けたという点が、他の伝説よりも現実的であるように感じるからです。その後、その家族がどうなったかは不明です。けれども、奴隷主の家族に関する、奇跡などの後日談は残されていません。恐らく、聖パトリックの預言通り、不幸な最期を迎えた可能性が高いのではないかと思います。

聖パトリックのお墓

St. Patrick`s Tomb, Downpatrick, Northern Ireland

聖パトリックの墓は、北アイルランドのダウンパトリックにあります。伝説によると、パトリックは生前、自分の遺体を埋葬する場所について遺言を残していたそうです。

パトリックは、彼が亡くなり、彼の遺体が納棺されたら、その棺桶を荷車に乗せ、牛が好きなところに牛車を引かせるようにと言ったそうです。そして、その牛が止まったところが、彼の埋葬場所である、と遺言を残したそうです。人々はパトリックの願いに従い、牛が荷車を引いていった丘の上に行き、そこにパトリックは埋葬されました。そして、その場所を示す目印の石が置かれました。やがて、この場所は巡礼の地として人気を集めるようになりました。

その後、12世紀に聖パトリックの聖遺物はホーリー・トリニティー教会(通称ダウン大聖堂)に移され、聖ブリジットや聖コルバの聖遺物とともに現在に至っています。今でもこの丘は、主要な巡礼地となっています。

一方、聖パトリックの聖遺物がダウン大聖堂にあるという話も、あくまでも伝説であると考えられています。E・セレナー氏によると、彼がどこに埋葬されたのかは誰も知らないということです。

私は、この聖パトリックの墓をオンラインで見ながら、かつて訪れたある町の(小さいながらも歴史あるすでに閉鎖された)、聖パトリック教会のお墓を思い出しました。その教会の裏手には、いくつかのお墓がありました。歴史好きの私は、ある日、興味本位でそのお墓を見に行きました。すると、それらのお墓はその教会の歴代神父たちのもので、その中に30代で亡くなった若い司祭のお墓がありました。30代という若さでしたので、どんな人生だったのだろう、若くして死を受け入れるのは大変なことだったのではなだろうか、と思いました。 きっと聖パトリックのように故郷を離れ、神の意志に従い、無名の聖人の一人になったのでは思います。

四旬節における聖パトリックの祝祭日

毎年、聖パトリックの祝日が近づくと、あと数週間で四旬節が終わるということで、私は励まされます。主に、四旬節の間はできるだけ甘いものを控え、イースターにはできるだけ甘いものを食べたいという、不謹慎な理由からです。

ノビス・オルドの新カレンダーに変更されてから、四旬節中は、あえて祭日が少なくしてあります。苦難の連続だった聖パトリックの生涯を振り返ると、四旬節にふさわしい聖人だな、としみじみと感じました。いつか、アイルランドにある聖パトリックゆかりの地を訪れ、ミサにあずかってみたいと思います。

Image: Saint Patrick statue in Downpatrick

Source for the life of Patrick: Celtic Spirituality. Oliver Davies : PaulistPress, 1999.

Source for St. Patrick’s burial place: Sellner, Edward: Wisdom of the Celtic Saints. Ave Maria Press, 1993.

聖パトリック:三つ葉がシンボルのアイルランドの使徒(1)

今年も「聖パトリック」の祭日、3月17日がやってきました。

カトリックの聖人「聖パトリック」は、アイルランドの守護聖人です。多くのアメリカ人はアイルランドの祖先をもっています。そのような理由もあると思いますが、アメリカでは人気のある聖人です。

聖パトリックの祭日には、伝統的に三つ葉のクローバーが用いられます。これは伝説でパトリックが、理解不可能といわれている神の神秘「三位一体」について人々に、三つ葉のクローバーを用い説明したといわれているためです。実はこの話は、18世紀に創作された話のようです。しかし彼が残した「告白」、そして「コロティクスの兵士に宛てた書簡」から、彼の人生についてほんのわずかですが知ることができます。

聖パトリックの生涯-アイルランドで宣教師となるまでの足取り

アイルランドへキリスト教を広めた聖パトリックですが、生年生没不詳です。恐らく4世紀後半から5世紀初期に英国で生まれた人物である、と信じられています。パトリック自身の回想によると、キリスト教助祭の息子であったが、信心深くはなかったとあります。パトリックがアイルランドで宣教師として導かれるまでの足取りを、こちらで簡単に紹介させていただきます。

奴隷として売られた聖パトリック

彼の人生を、大きく変えることになる出来事が起こったのは、パトリックが16歳ごろのことです。アイルランドからの略奪者にとらわれ、奴隷にされ、羊飼いとして売られてしまったのです。そのような大変な状況に置かれたことについて、彼は彼の著書「告白」のなかで、「私たちは神から離れ、神の戒めを守らなかったのですから、自業自得です。私たちは、どうすれば救われるかについて助言する司祭の言葉に耳を貸さなかったのです」と述べています。その当時の羊飼いというのは、常に命の危険にさらされる過酷な仕事でした。そのような試練をパトリックは、神から罰ではなく、彼の信仰を強めた神の祝福だったと続けています。

神の不思議な導き

アイルランドでの彼の生活は羊の世話をしながら、祈り続けることでした。そのような生活を続けているある日、寝ているときに不思議な声が聞こえ「祖国に帰れる」、と告げられました。そして「見なさい。あなたの船は準備されている」とその不思議な声から知らされます。23歳になっていたパトリックは逃亡奴隷として、200マイル以上を旅し、船着き場へと向かいました。ようやく船までたどり着いたパトリックに、船長は乗船を拒否しました。それでもパトリックは、あきらめずに、神に祈りをささげました。すると神の働きにより、乗船を許可されたのです。

3日後パトリックたちは船を降り、英国に向かい荒野を旅しはじめました。そして28日間荒野を旅をしているうち、ついに食料がつきてしまいました。一緒に旅をしていた船長は彼に「万能で偉大なクリスティアンの神に祈ってほしい」と願います。パトリックが祈ると豚の群れが現れ、彼らは豚を殺し、体力を回復することができたのでした。その日の夜、パトリックは悪魔の攻撃を受け、祈りによって救われたたことも記述しています。

かつてアイルランドの旅は、船のほうが陸地を旅するより安全だったそうです。パトリックの荒野の旅の記述は、今では考えられないような危険と困難をともなっていた、ということの一つの証明だといえます。この後の話ですが、パトリックが自分の故郷に無事到着したのか、それとも故郷への旅をしばらくあきらめ、違う土地にとどまっていたのかは不明です。

フランスからアイルランドへ

そして数年後、パトリックは二度目の捕虜となりました。そして再び脱出し、ついに、英国の両親のもとにもどります。しかし教育を受けず、過酷な経験をしたことにより、普通の生活に戻る難しさを感じます。神からの使命を強く感じたパトリックは、両親、親戚が止めるのも聞かずローマに行くことを決意しました。ローマの旅への途中、聖ゲルマヌスに出会います。パトリックは、ガリア(フランス)のオセールでの聖ゲルマヌスもとで、神職の勉強をすることになったのでした。

そのような時に彼はまた、不思議な導きを受けます。ヴィクトリカスという名前の男がアイルランドからの無数の手紙をもってきた夢をみたのです。神の導きがあり、パトリックはふたたびアイルランドに戻ることを決意します。

その後のパトリックの生涯については、彼の自伝からではなく、伝説として語り継がれてきたものです。歴史事実として述べることができるのは、パトリックがキリスト教をアイルランドに広め、それと同時に文字、ローマ暦、そして教会の伝統を伝えたことです。パトリックにより広められたキリスト教はアイルランド全土に根付きました。彼の死後、アイルランドは、世界で最も最も修道院の多い国の一つとなりました。そして知識の宝庫となり、司祭や修道士、尼僧の養成に貢献しました。ローマから、修道士たちが学びに来るほどになったのです。

奇妙なドルイドの予言

これらの話は、パトリックが没後約150年後に書かれたムイルフ『聖パトリックの生涯』によるものです。

アイルランドに向かう前に、英国で司教となったパトリックは、多くのドルイド教徒と共にいた異教徒の王(ニアルの息子)が支配するターラへと向かいました。
パトリックがアイルランドにやってくる二、三年前から、ドルイドたちは王に「自分たちの島に、自分たちの生活様式を破壊しようとする者がやってくる」と予言し始めました。ドルイドの予言は、その当時の慣習により詩の形式で、パトリックとキリスト教について驚くほど正確に描写しています。

ドルイドの予言

アイルランドに新しい生き方が外からやってくる。
それはまるで王国のようで、遠くから、海を越えやってくる。
それは、我々をいらいらさせる教えをたずさえてくる。
その教えは、ほんの一握りからしか与えられないが、多くの人が受けとることになる。
そして、すべての人から尊敬の念をいだかれることであろう。
王国を転覆させ、それに抵抗する王を殺すだろう。
そして人々を誘惑する。
我々の神々を全て破壊し、ドルイドの慣習を追い出すだろう。
そしてこの王国には終わりがない。
頭を剃った者が、その先端がくるくると丸った棒を持ってここに来るだろう。
彼は穴の開いた頭で、自分の家から胸がむかつく不浄なことを歌うだろう。
家の前にある机から、
彼の家族全員が、「そうなりますように。そうなりますように」とこたえるだろう。

ドルドルイドの予言は本物?

私は神話や伝説、民話が大好きです。その理由のひとつは、私たちに伝わる物語の中には、脚色されたり誇張されたりしているとはいえ、事実に基づいているものがあるからです。

ドルイドは、残酷な方法で人間を生贄に捧げ、未来を予言することで有名でした。明らかにドルイドは、悪魔的な宗教を実践していたのです。仮に、ドルイドの予言が悪魔の力を借りてなされたとします。そうすると、その予言の内容が聖なるものを表現したくない(あるいはできない)悪魔が、日常的な物の名前を用い表現することを、時により、思い起こさせるのも納得がいくと言えます。

ウィリアム・キャクストンが翻訳した『黄金伝説』には、悪魔が 「鍋」と呼ぶエクソシストの聖杯の話があります。もちろん、『黄金伝説』の話が必ずしも歴史的に正しいとは限りませんが、ドルイド教の予言書に出てくる聖なるものの描写は、どれも日常的な物の名前を例えに使用しており、よく似ているように思います。

エクソシストのヴィンセント・ランパート司祭は、あるインタビューで、悪魔は聖なるものについて話すことを避けると述べています。ドルイドの予言では、坊主頭で杖を持ったカトリックの司教が描写されていますが、それは間接的なものです。そして、最後の 「そうなりますように」”May it be so” は、ヘブライ語の アーメンの翻訳である” So be it “と同じ意味となります。

この話は後から創作されたものかもしれませんが、当時のアイルランドの文化的背景を考えると、非常に興味深い予言であると思います。

(2)へ続く

Image: Scenes from the Life of Saint Patrick. National Gallery of Ireland

Source for the life of Patrick: Celtic Spirituality. Oliver Davies : PaulistPress, 1999.

悪魔の誘惑に打ち勝つために- エドワード・ミークス司祭

今週は四旬節(レント)の3週目にあたります。四旬節は、誘惑や悪霊についてよく耳にする時期です。四旬節の第1週目に、メリーランド州タウソン市にあるクライスト・ザ・キング教会のエドワード・ミークス司祭が、悪魔の霊的攻撃についてのビデオをアップロードしました。彼はかつて、コロナワクチン義務化に反対し、話題になりました。ライフサイト・ニュースによると、エドワード・ミークス司祭は、中絶、性転換手術、ポルノ、ドラッグショーを「悪魔の狂気」と断じた、とありました。

A Blanket of Demonic Insanity – Fr. Edward Meeks

私はヘッドラインだけ読み、ミークス司祭が、最近の世相への非難を強い口調で述べていたのかしら、と想像してしまいました。しかしビデオを確認し、そうではないことがわかりました。はじめから彼の話を聞くと、悪魔の誘惑に対抗するためのお説教がメインであり、ヘッドラインにある言葉だけをピックアップして読んだ時と、受ける印象がずいぶん違うことに気が付きました。お説教の最後の部分では、悪魔の霊的攻撃を見極めることができるよう、私たちにとり理解しやすい説明をしてくれています。

悪魔の誘惑とは?アダムとエバ、イエスからの教訓

まずミークス司祭は、お説教の前半で悪魔がアダムとエバ、そしてイエスキリストを同じような方法で誘惑したことにふれています。そして誘惑されたアダムとエバ、イエスから、私たちが「否定的教訓」と「肯定的教訓」をどのように得ることができるか、という点について述べています。以下に、ミークス司祭の指摘を紹介します。

The Creation of Eve (Hours of Catherine of Cleves, ca. 1440).

1.食べるー禁断の果実への誘惑とパンへの誘惑

エデンで、悪魔は蛇に化けて、エバに(注)禁断の果実を食べるように勧めた。 (創世記 3)
神はアダムとエバに、その実を食べたら死ぬとはっきりと告げていた。しかし、エバは、その実を食べても死なないという蛇の言葉に納得してしまう。悪魔の誘惑に、負けてしまったのである。 

40日間の断食の後、空腹のイエスは、石をパンに変えてみるように促された。イエスは悪魔に「人はパンだけで生きることはできない」(マタイ4:6)と言い、悪魔の罠にはまらなかった。

(注)エバが食べたのはリンゴだとすぐに思い浮かべるが、聖書では明確には述べていない。ミークス司祭も聖書の通り「禁断の果物」と述べている。

2.あなたは神のようになる

蛇はエバに「この禁断の果実を食べれば、神のようになれる」と言った。実は、アダムとエバは、永遠の命を持つ神に似せて造られていたので、神のようになる必要はなかった

悪魔はイエスに、「神殿の高台から飛び降りなさい。そうすれば、自分が神であることを証明できる」と言った。さらに悪魔はイエスに「私を拝むなら、この世のすべての王国とその栄光を与えよう」と誘惑した。イエスは悪魔に言った。「あなたはあなたの神である主を礼拝し、その方だけに仕えなさい」イエスは、誘惑されながらも、悪魔の罠にはまることはなかった。

ミークス神父の説教は、私たちが悪魔の誘惑に打ち勝つためには、神の言葉である聖書が不可欠であることを教えています。

エクソシストは悪魔に命令を下し、追い出すが、悪魔と会話はしません。(してはならない)。というのも、悪魔(人間の弱さや人に言えない彼らの悪の秘密をすべて知っている)と会話することは、悪魔にその人間を利用する機会を与えてしまうからです。蛇の姿をした悪魔がエバを誘惑したとき、エバは自分の言葉で悪魔に答えてしまいます。しかしイエスは、悪魔の誘惑に。聖書の言葉をもって答えておられます。

世相に見る悪魔の誘惑と攻撃

そしてお説教の後半部分で、ミークス司祭は、確かに、ヘッドラインにあったようなことを発言していました。

まずミークス司祭は、悪魔は、ほとんどの場合、悪魔の誇張した姿(overplay his hands-悪魔が自分の能力に対して自信過剰になり危険を犯す姿)を私たちに見せるものだ、と述べています。そのうえで、ミークス神父は、「悪魔が今日、私たちの世界でそのようなことをしている兆候がある」と指摘しています。そして、ここでミークス司祭のヘッドラインにもあった発言になります。彼は、そのような悪魔的な狂気は、以下のような形で現れていると言います。

1.胎児の殺人。(中絶)
2.胎児を守る人への攻撃。
3.(注)ジェンダー・イデオロジーの名の下に、子供たちを外科的に切断すること。すなわち性転換手術。
4.公共図書館でドラッグ・クイーンによる子供向け本の朗読。
5.公立学校の図書館にあるポルノ本。
6.悪魔崇拝を祝うテレビのプライムタイム番組。

(注)人種と同様に、男性らしさ、女性らしさは、価値観や社会的地位を伝える社会的に構築された概念である。Gender Ideology | Encyclopedia.com

といった具合です。

以下は、彼のお説教からの抜粋です。

私は、何百万人もの理性的な人々が不合理なことをしているのを見るたびに、起こっていることの中に(注1)悪魔の要素を探します。(注2)悪魔的な狂気の毛布が地に降り注ぎ、私たちはそれを目の当たりにしているのです。

(注1)悪魔のしわざではないだろうか、と怪しく思う。

(注2) 英語の「a blanket of fog」という表現から、悪の狂気が霧のように地に降り注ぎ、地上を覆っていることを意味していると考えられる。

上記の事柄は、いずれも米国で頻繁に議論されていることがらです。一方、米国とは対照的に、日本ではキリスト教的世界観や、反キリスト教的世界観を反映した社会現象はほとんどありません。けれども残念なことに、ミークス司祭の言うような悪魔的な狂気の働きが、日本でもすでに起こっていることは明らかです。日本では、キリスト教的西洋文化と、反キリスト教的西洋文化の違いを全く知らないまま、西洋文化の多くの側面を喜んで受け入れています。日本のような国におき、そのような悪魔の狂気がどのような悪影響を及ぼすことになるのか、懸念せざるを得ません。

悪魔の罠におちいらないために

司祭の仕事は、私たちの魂の救いのために霊的危険を警告することです。しかし司祭が伝えようとする真実のなかには、目に見えない悪魔の存在などがあります。このようなことは、多くの人にとり、古い迷信のように思われたびたび無視されがちです。ベネディクト16世は『Introduction to Christianity』(P.39-40) の中で、キルケゴールの話を引き合いに出し、無視され続ける司祭や神学者を、危険な火事を知らせようとする道化師に例えました。

バチカンのエクソシストであるガブリエル・アモース師は、著書『An Exorcist Explains the Demonic』の中で、原因不明の身体や精神の病が悪魔の攻撃であるかどうかを見極めるプロセスについて述べています。医学博士については、「実際、彼らの多くは悪霊の存在を想像することさえできない 」と述べています(p.85)。

頭では理解していたとしても、目に見えないものがあるということを心で実感することは、多くの人にとって難しいことだと思います。例えば、私の場合、毎週日曜日、ある教会のミサに参加しています。司祭は説教の中で、大罪の恐ろしさについて語ることがあります。私は教会の教えを信じています。けれども、司祭のお説教に、集中できていない自分がいることがよくあります。地獄に落ちる罪の本当の恐ろしさを感じていないことがあるのです。もっと司祭の話に耳を傾ける必要が私自身にもあります。

日常生活においては、何をしていても「祈り」を忘れずにいたいと思います。祈りは神に心が向くことですので、悪魔の誘惑にあってもより良い選択ができるようになるからです。悪魔の攻撃を防げるよう、神様のお恵みを願いたいと思います。私にも、そして世界にも、神様の御心が成されることを心から祈ります。


悪魔の嫌うラテン語:祈りの宝庫ラテン語ミサ

経験豊かなエクソシスト、ゲイリー・トーマス師は「悪魔はラテン語を嫌う」と断言しています。そして、この意見は、彼自身と他の人々の経験に基づくものだと付け加えています。(こちらをご覧ください)

教皇フランシスコの自発教令、トラディチオニス・クストデス(Traditionis Custodes)の実施後、ラテン語ミサに参加することはさらに難しくなります。バチカンでは、ラテン語ミサの数を減らすことを最優先課題としているようです。しかし、実は伝統主義者の数は非常に少なく、最も多い教区ではミサ参加者の2.5%、その他の地域では平均1%程度となっています。-ナショナル・カトリック・レジスター

聖なるものはすべて悪魔の脅威ですが、伝統的なラテン語ミサの諸要素は、実に強力なものであるに違いないといえます。どうやら、伝統的ミサに教区民の1~2%でも参加することがあれば、悪魔にとっては耐え難いことであり、何としてでも消滅させたいようです。

祈りに集中できるラテン語ミサ

私はアメリカに来てからラテン語ミサに参加するようになりました。それまではノブス・オルド(1969年に公布された新しいミサ形式)に参加していました。ですから、渡米前の私は、ラテン語ミサについてほとんど何も知りませんでした。

しかし、ラテン語のミサに参加し続け、徐々に慣れてくると、ラテン語のミサの方が、ノブス・オルドのミサよりも祈りに集中できることに気づきました。

ノブス・オルドのミサは、口語的な言葉で行われ、世俗的な音楽が使われることがほとんどです。私がノブス・オルドのミサで集中できなかった理由のひとつは、そういう世俗的な音楽が原因でした。私が通っていた教会では、「民族音楽」と呼ばれる音楽でしたが、実際には、何世紀も前の民族音楽が使われているわけではありません。ポップミュージックや、下手なミュージカルで聞くような音楽です。そのような音楽は、私の祈りの妨げになることが、度々ありました。

ノブス・オルドでの祈りづらさ

これは例えば、歌詞やメロディーを聞いていて、「アレルヤは言わないはずのレント・シーズンでなぜ、レントにふさわしくないアレルヤの曲?第二バチカン以降、気にしなくなったのかしら?何でこんな明るい曲を選曲したのだろう?」と、典礼の意味にそぐわないことばかり考えてしまうことにもあります。挙句の果てに「あ、今ギターの人コードまちがえたようだ」などと思い始めると、もうおしまいです。祈りに全く、集中できなくなってしまうのです。

ミサでは、神に祈り、神と交わることに集中しなければなりません。それは、どんなに良いときでも簡単なことではありません。神秘性を感じられない、ガチャガチャとした音に気を取られてしまうのです。伝統的なミサには静けさがあります。その中で、私たちは祈りに集中することができるのです。

本来のミサであるラテン語ミサでは、祈りであるグレゴリアン聖歌が歌われていました。聖書のなかでは悪魔に対抗するために「神の武具を身につけなさい」(エペソ6:11)と述べています。「神の武具」すなわち祈りです。伝統的ミサでのグレゴリアン聖歌は、言い換えれば何世紀も続いてきた伝統的ミサの「祈り」の宝庫の一部なのです。世俗の世界で楽しむための音楽と、神への祈りのための音楽は、根本的に違うのです。

神の祭典にふさわしいラテン語ミサとグレゴリア聖歌

なぜ、このような世俗的なミサが推奨されるのでしょうか。民族音楽を使用したミサ、通称フォーク・ミサに合わせた音楽は、簡単で楽しく歌えるようなタイプのものがほとんどです。歌いやすい歌に気楽な雰囲気のミサは、誰でもすぐに気負いなく参加できるという利点がある、と典礼者改革者たちは考えたのでしょう。

しかし、そのような気楽な雰囲気は、果たしてミサにふさわしいのでしょうか。私は、神が祭壇に臨まれる、この世で最も神聖な活動であるミサは、もう少し厳粛に祝うべきものである、と考えます。もっと静寂がふさわしいのではないでしょうか?簡単な音楽が好ましいと思うなら、週7日、教会のミサの時間以外の日常生活のなかで楽しめばいいだけの話なのですから。世俗の娯楽としての音楽と、神への祈りのための音楽とは根本的に違うのです。 

聖書では、悪魔に対抗するために「神の武具を身につけなさい」(エペソ6:11)と教えています。神の武具の一部は祈りです(エペソ6:18)。伝統的なミサのテキストは、教会が何世紀も前から持っている祈りの宝庫の一部なのです。ラテン語ミサの古くからのオリジナル音楽であるグレゴリオ聖歌は、旋律の形をした祈りです。旋律はゆっくりと動き、祈りの言葉の意味をより深く感じさせてくれるのです。

Missa cum jubilo – Kyrie – YouTube 主よあわれみたまえ

グレゴリオ聖歌の不思議な体験

私は以前、ラテン語ミサのグレゴリオ聖歌に参加したことがあります。そして一度、世俗音楽とグレゴリオ聖歌の違いを実感する不思議な体験をしたことがあります。

ある土曜日、私は翌日(日曜日)に歌う予定のグレゴリオ聖歌の練習をしていました。練習をギリギリまで先延ばしにしていたのです。グレゴリオ聖歌の旋律の動きは独特で、現代音楽とはまったく違います。そのため、いつも覚えるのに苦労していました。その土曜日は、日曜日のミサに間に合わせるために、一日中、何度も何度も聖歌の練習をしていました。それでも、夜には、なんとか自分の聖歌を歌えるレベルまで持っていくことができました。夫に「一日中グレゴリオ聖歌を練習して、全身が祈りで満たされている」と冗談を言ったのを覚えています。

(やっとリラックスできる )と思いながら、私はお茶を飲んでいました。そして、ちらっと夫を見ると、インターネットで趣味のことを調べているようでした。それを見た瞬間、突然、経済的な負担を考えずにのんびりしている夫に対して、怒りがこみ上げてきたのです。

心の底から、ほぼ100%夫が悪いと思っていたので、怒りが支配して、すぐに憎しみに変わったのを覚えています。頭の中に憎しみの悪魔的なイメージが浮かび、体中の血液が毒されているような気がしました。

心のどこかで、(この異常な怒りはおかしい。危険だ )と感じていました。しかし、それでも私は(そうだろう。この怒りは正義なのだから。だから、こんなにひどくなったのだ)と、自分に言い聞かせ、心の警告を無視していました。その一方、(この怒りを神様が受け止めてくださいますように)と一瞬だけ祈ったのです。それはほんの一瞬であり、利己的な理由でした。(明日は日曜日だけど、この怒りでは、おそらく聖体拝領に値しないだろうな)と心の中で思ったのです。

すると、思いがけないことが起こったのです。突然、私の心の中に、憎しみとは正反対のやわらかい感情がわき上がってきたのです。恐らく神の愛だったのだと思います。怒りが薄れてくると、自分の頑固さ、人を信用しない、怒りしかもとうとしない自分の姿が見えてきたのです。また、困難な状況は呪いではなく、神からの贈り物であることに気づかされました。私に必要な忍耐力を強めてくれていたのです。そして、私の最大の怒りは、夫や困難な状況を経験しなければならなかったことではなく、困難な状況にある私を見ているだけの神に対するものだと気づいたのです。

その後、自分の意志と関係なく、しばらくは涙が止まりませんでした。そして強い眠気に襲われ、その後すぐに眠りました。そして翌朝は、心身ともに、とてもすっきりとし、目覚めることができました。

グレゴリオ聖歌を合唱しているとき、私たちは古い時代の祈りを生き生きと再現しています。証明はできませんが、グレゴリオ聖歌とラテン語の祈りの神秘的な力が、私の心の奥底に潜んでいた悪を浄化してくれたと信じています。

進むグレゴリオ聖歌の普及

伝統的ミサは、古くから受け継がれてきた祈りと、それを補完するグレゴリオ聖歌で構成されています。しかし、今、バチカンは、この伝統的ミサを極力排除しようとしています。本質的な問題は、バチカンが伝統的なミサを制限することで、その中にある神との交わりを育む古くからある祈りも制限していることです。一方で、少なくとも私の小教区の教会では、ラテン語ミサが廃止された今、ノブス・オルドのミサには、以前にも増してグレゴリオ聖歌が多く取り入れられるようになりました。これは大変興味深いことです。今後、どうなるのかは神のみぞ知る、ですが、ラテン語ミサの恩恵を受けることが難しくなった今、私たち一人一人が神を信じ、より一層信仰を深めていく必要性を強く感じています。

イタリア大聖堂にあるグレゴリオ聖歌本の画像: Dreamstime