今週は四旬節(レント)の3週目にあたります。四旬節は、誘惑や悪霊についてよく耳にする時期です。四旬節の第1週目に、メリーランド州タウソン市にあるクライスト・ザ・キング教会のエドワード・ミークス司祭が、悪魔の霊的攻撃についてのビデオをアップロードしました。彼はかつて、コロナワクチン義務化に反対し、話題になりました。ライフサイト・ニュースによると、エドワード・ミークス司祭は、中絶、性転換手術、ポルノ、ドラッグショーを「悪魔の狂気」と断じた、とありました。
私はヘッドラインだけ読み、ミークス司祭が、最近の世相への非難を強い口調で述べていたのかしら、と想像してしまいました。しかしビデオを確認し、そうではないことがわかりました。はじめから彼の話を聞くと、悪魔の誘惑に対抗するためのお説教がメインであり、ヘッドラインにある言葉だけをピックアップして読んだ時と、受ける印象がずいぶん違うことに気が付きました。お説教の最後の部分では、悪魔の霊的攻撃を見極めることができるよう、私たちにとり理解しやすい説明をしてくれています。
悪魔の誘惑とは?アダムとエバ、イエスからの教訓
まずミークス司祭は、お説教の前半で悪魔がアダムとエバ、そしてイエスキリストを同じような方法で誘惑したことにふれています。そして誘惑されたアダムとエバ、イエスから、私たちが「否定的教訓」と「肯定的教訓」をどのように得ることができるか、という点について述べています。以下に、ミークス司祭の指摘を紹介します。
The Creation of Eve (Hours of Catherine of Cleves, ca. 1440).
1.食べるー禁断の果実への誘惑とパンへの誘惑
エデンで、悪魔は蛇に化けて、エバに(注)禁断の果実を食べるように勧めた。 (創世記 3)
神はアダムとエバに、その実を食べたら死ぬとはっきりと告げていた。しかし、エバは、その実を食べても死なないという蛇の言葉に納得してしまう。悪魔の誘惑に、負けてしまったのである。
40日間の断食の後、空腹のイエスは、石をパンに変えてみるように促された。イエスは悪魔に「人はパンだけで生きることはできない」(マタイ4:6)と言い、悪魔の罠にはまらなかった。
(注)エバが食べたのはリンゴだとすぐに思い浮かべるが、聖書では明確には述べていない。ミークス司祭も聖書の通り「禁断の果物」と述べている。
2.あなたは神のようになる
蛇はエバに「この禁断の果実を食べれば、神のようになれる」と言った。実は、アダムとエバは、永遠の命を持つ神に似せて造られていたので、神のようになる必要はなかった。
悪魔はイエスに、「神殿の高台から飛び降りなさい。そうすれば、自分が神であることを証明できる」と言った。さらに悪魔はイエスに「私を拝むなら、この世のすべての王国とその栄光を与えよう」と誘惑した。イエスは悪魔に言った。「あなたはあなたの神である主を礼拝し、その方だけに仕えなさい」イエスは、誘惑されながらも、悪魔の罠にはまることはなかった。
ミークス神父の説教は、私たちが悪魔の誘惑に打ち勝つためには、神の言葉である聖書が不可欠であることを教えています。
エクソシストは悪魔に命令を下し、追い出すが、悪魔と会話はしません。(してはならない)。というのも、悪魔(人間の弱さや人に言えない彼らの悪の秘密をすべて知っている)と会話することは、悪魔にその人間を利用する機会を与えてしまうからです。蛇の姿をした悪魔がエバを誘惑したとき、エバは自分の言葉で悪魔に答えてしまいます。しかしイエスは、悪魔の誘惑に。聖書の言葉をもって答えておられます。
世相に見る悪魔の誘惑と攻撃
そしてお説教の後半部分で、ミークス司祭は、確かに、ヘッドラインにあったようなことを発言していました。
まずミークス司祭は、悪魔は、ほとんどの場合、悪魔の誇張した姿(overplay his hands-悪魔が自分の能力に対して自信過剰になり危険を犯す姿)を私たちに見せるものだ、と述べています。そのうえで、ミークス神父は、「悪魔が今日、私たちの世界でそのようなことをしている兆候がある」と指摘しています。そして、ここでミークス司祭のヘッドラインにもあった発言になります。彼は、そのような悪魔的な狂気は、以下のような形で現れていると言います。
1.胎児の殺人。(中絶)
2.胎児を守る人への攻撃。
3.(注)ジェンダー・イデオロジーの名の下に、子供たちを外科的に切断すること。すなわち性転換手術。
4.公共図書館でドラッグ・クイーンによる子供向け本の朗読。
5.公立学校の図書館にあるポルノ本。
6.悪魔崇拝を祝うテレビのプライムタイム番組。
(注)人種と同様に、男性らしさ、女性らしさは、価値観や社会的地位を伝える社会的に構築された概念である。Gender Ideology | Encyclopedia.com
といった具合です。
以下は、彼のお説教からの抜粋です。
私は、何百万人もの理性的な人々が不合理なことをしているのを見るたびに、起こっていることの中に(注1)悪魔の要素を探します。(注2)悪魔的な狂気の毛布が地に降り注ぎ、私たちはそれを目の当たりにしているのです。
(注1)悪魔のしわざではないだろうか、と怪しく思う。
(注2) 英語の「a blanket of fog」という表現から、悪の狂気が霧のように地に降り注ぎ、地上を覆っていることを意味していると考えられる。
上記の事柄は、いずれも米国で頻繁に議論されていることがらです。一方、米国とは対照的に、日本ではキリスト教的世界観や、反キリスト教的世界観を反映した社会現象はほとんどありません。けれども残念なことに、ミークス司祭の言うような悪魔的な狂気の働きが、日本でもすでに起こっていることは明らかです。日本では、キリスト教的西洋文化と、反キリスト教的西洋文化の違いを全く知らないまま、西洋文化の多くの側面を喜んで受け入れています。日本のような国におき、そのような悪魔の狂気がどのような悪影響を及ぼすことになるのか、懸念せざるを得ません。
悪魔の罠におちいらないために
司祭の仕事は、私たちの魂の救いのために霊的危険を警告することです。しかし司祭が伝えようとする真実のなかには、目に見えない悪魔の存在などがあります。このようなことは、多くの人にとり、古い迷信のように思われたびたび無視されがちです。ベネディクト16世は『Introduction to Christianity』(P.39-40) の中で、キルケゴールの話を引き合いに出し、無視され続ける司祭や神学者を、危険な火事を知らせようとする道化師に例えました。
バチカンのエクソシストであるガブリエル・アモース師は、著書『An Exorcist Explains the Demonic』の中で、原因不明の身体や精神の病が悪魔の攻撃であるかどうかを見極めるプロセスについて述べています。医学博士については、「実際、彼らの多くは悪霊の存在を想像することさえできない 」と述べています(p.85)。
頭では理解していたとしても、目に見えないものがあるということを心で実感することは、多くの人にとって難しいことだと思います。例えば、私の場合、毎週日曜日、ある教会のミサに参加しています。司祭は説教の中で、大罪の恐ろしさについて語ることがあります。私は教会の教えを信じています。けれども、司祭のお説教に、集中できていない自分がいることがよくあります。地獄に落ちる罪の本当の恐ろしさを感じていないことがあるのです。もっと司祭の話に耳を傾ける必要が私自身にもあります。
日常生活においては、何をしていても「祈り」を忘れずにいたいと思います。祈りは神に心が向くことですので、悪魔の誘惑にあってもより良い選択ができるようになるからです。悪魔の攻撃を防げるよう、神様のお恵みを願いたいと思います。私にも、そして世界にも、神様の御心が成されることを心から祈ります。