今年も「聖パトリック」の祭日、3月17日がやってきました。
カトリックの聖人「聖パトリック」は、アイルランドの守護聖人です。多くのアメリカ人はアイルランドの祖先をもっています。そのような理由もあると思いますが、アメリカでは人気のある聖人です。
聖パトリックの祭日には、伝統的に三つ葉のクローバーが用いられます。これは伝説でパトリックが、理解不可能といわれている神の神秘「三位一体」について人々に、三つ葉のクローバーを用い説明したといわれているためです。実はこの話は、18世紀に創作された話のようです。しかし彼が残した「告白」、そして「コロティクスの兵士に宛てた書簡」から、彼の人生についてほんのわずかですが知ることができます。
聖パトリックの生涯-アイルランドで宣教師となるまでの足取り
アイルランドへキリスト教を広めた聖パトリックですが、生年生没不詳です。恐らく4世紀後半から5世紀初期に英国で生まれた人物である、と信じられています。パトリック自身の回想によると、キリスト教助祭の息子であったが、信心深くはなかったとあります。パトリックがアイルランドで宣教師として導かれるまでの足取りを、こちらで簡単に紹介させていただきます。
奴隷として売られた聖パトリック
彼の人生を、大きく変えることになる出来事が起こったのは、パトリックが16歳ごろのことです。アイルランドからの略奪者にとらわれ、奴隷にされ、羊飼いとして売られてしまったのです。そのような大変な状況に置かれたことについて、彼は彼の著書「告白」のなかで、「私たちは神から離れ、神の戒めを守らなかったのですから、自業自得です。私たちは、どうすれば救われるかについて助言する司祭の言葉に耳を貸さなかったのです」と述べています。その当時の羊飼いというのは、常に命の危険にさらされる過酷な仕事でした。そのような試練をパトリックは、神から罰ではなく、彼の信仰を強めた神の祝福だったと続けています。
神の不思議な導き
アイルランドでの彼の生活は羊の世話をしながら、祈り続けることでした。そのような生活を続けているある日、寝ているときに不思議な声が聞こえ「祖国に帰れる」、と告げられました。そして「見なさい。あなたの船は準備されている」とその不思議な声から知らされます。23歳になっていたパトリックは逃亡奴隷として、200マイル以上を旅し、船着き場へと向かいました。ようやく船までたどり着いたパトリックに、船長は乗船を拒否しました。それでもパトリックは、あきらめずに、神に祈りをささげました。すると神の働きにより、乗船を許可されたのです。
3日後パトリックたちは船を降り、英国に向かい荒野を旅しはじめました。そして28日間荒野を旅をしているうち、ついに食料がつきてしまいました。一緒に旅をしていた船長は彼に「万能で偉大なクリスティアンの神に祈ってほしい」と願います。パトリックが祈ると豚の群れが現れ、彼らは豚を殺し、体力を回復することができたのでした。その日の夜、パトリックは悪魔の攻撃を受け、祈りによって救われたたことも記述しています。
かつてアイルランドの旅は、船のほうが陸地を旅するより安全だったそうです。パトリックの荒野の旅の記述は、今では考えられないような危険と困難をともなっていた、ということの一つの証明だといえます。この後の話ですが、パトリックが自分の故郷に無事到着したのか、それとも故郷への旅をしばらくあきらめ、違う土地にとどまっていたのかは不明です。
フランスからアイルランドへ
そして数年後、パトリックは二度目の捕虜となりました。そして再び脱出し、ついに、英国の両親のもとにもどります。しかし教育を受けず、過酷な経験をしたことにより、普通の生活に戻る難しさを感じます。神からの使命を強く感じたパトリックは、両親、親戚が止めるのも聞かずローマに行くことを決意しました。ローマの旅への途中、聖ゲルマヌスに出会います。パトリックは、ガリア(フランス)のオセールでの聖ゲルマヌスもとで、神職の勉強をすることになったのでした。
そのような時に彼はまた、不思議な導きを受けます。ヴィクトリカスという名前の男がアイルランドからの無数の手紙をもってきた夢をみたのです。神の導きがあり、パトリックはふたたびアイルランドに戻ることを決意します。
その後のパトリックの生涯については、彼の自伝からではなく、伝説として語り継がれてきたものです。歴史事実として述べることができるのは、パトリックがキリスト教をアイルランドに広め、それと同時に文字、ローマ暦、そして教会の伝統を伝えたことです。パトリックにより広められたキリスト教はアイルランド全土に根付きました。彼の死後、アイルランドは、世界で最も最も修道院の多い国の一つとなりました。そして知識の宝庫となり、司祭や修道士、尼僧の養成に貢献しました。ローマから、修道士たちが学びに来るほどになったのです。
奇妙なドルイドの予言
これらの話は、パトリックが没後約150年後に書かれたムイルフ『聖パトリックの生涯』によるものです。
アイルランドに向かう前に、英国で司教となったパトリックは、多くのドルイド教徒と共にいた異教徒の王(ニアルの息子)が支配するターラへと向かいました。
パトリックがアイルランドにやってくる二、三年前から、ドルイドたちは王に「自分たちの島に、自分たちの生活様式を破壊しようとする者がやってくる」と予言し始めました。ドルイドの予言は、その当時の慣習により詩の形式で、パトリックとキリスト教について驚くほど正確に描写しています。
ドルイドの予言
アイルランドに新しい生き方が外からやってくる。
それはまるで王国のようで、遠くから、海を越えやってくる。
それは、我々をいらいらさせる教えをたずさえてくる。
その教えは、ほんの一握りからしか与えられないが、多くの人が受けとることになる。
そして、すべての人から尊敬の念をいだかれることであろう。
王国を転覆させ、それに抵抗する王を殺すだろう。
そして人々を誘惑する。
我々の神々を全て破壊し、ドルイドの慣習を追い出すだろう。
そしてこの王国には終わりがない。
頭を剃った者が、その先端がくるくると丸った棒を持ってここに来るだろう。
彼は穴の開いた頭で、自分の家から胸がむかつく不浄なことを歌うだろう。
家の前にある机から、
彼の家族全員が、「そうなりますように。そうなりますように」とこたえるだろう。
ドルドルイドの予言は本物?
私は神話や伝説、民話が大好きです。その理由のひとつは、私たちに伝わる物語の中には、脚色されたり誇張されたりしているとはいえ、事実に基づいているものがあるからです。
ドルイドは、残酷な方法で人間を生贄に捧げ、未来を予言することで有名でした。明らかにドルイドは、悪魔的な宗教を実践していたのです。仮に、ドルイドの予言が悪魔の力を借りてなされたとします。そうすると、その予言の内容が聖なるものを表現したくない(あるいはできない)悪魔が、日常的な物の名前を用い表現することを、時により、思い起こさせるのも納得がいくと言えます。
ウィリアム・キャクストンが翻訳した『黄金伝説』には、悪魔が 「鍋」と呼ぶエクソシストの聖杯の話があります。もちろん、『黄金伝説』の話が必ずしも歴史的に正しいとは限りませんが、ドルイド教の予言書に出てくる聖なるものの描写は、どれも日常的な物の名前を例えに使用しており、よく似ているように思います。
エクソシストのヴィンセント・ランパート司祭は、あるインタビューで、悪魔は聖なるものについて話すことを避けると述べています。ドルイドの予言では、坊主頭で杖を持ったカトリックの司教が描写されていますが、それは間接的なものです。そして、最後の 「そうなりますように」”May it be so” は、ヘブライ語の アーメンの翻訳である” So be it “と同じ意味となります。
この話は後から創作されたものかもしれませんが、当時のアイルランドの文化的背景を考えると、非常に興味深い予言であると思います。
Image: Scenes from the Life of Saint Patrick. National Gallery of Ireland
Source for the life of Patrick: Celtic Spirituality. Oliver Davies : PaulistPress, 1999.