生か死かーカトリックの視点から見た 中絶問題

実は私は、最近まで、中絶が殺人に等しいとは全く考えていませんでした。中絶の問題が取り上げられ、中絶について調べ、胎児がどれほど成長しているのか、どのように中絶されるのかという事実を初めて知り、その事実にぞっとしたのです。おそらく、多くの中絶推進派の人々は、かつての私と同じように、中絶の真実について無知なのではないでしょうか。

今回は、なぜ中絶が重要な問題なのか、そしてこの問題に対する、カトリックの視点はどうなのかについてお話したいと思います。

カトリックにおける神の赦しと中絶の罪

カトリックの教えは、罪のない人間の命を故意に奪うことは、常に間違っているというものです。胎児は人間であり、明らかに無実です。ですから、胎児を殺すこと、つまり中絶は、罪のない人間の命を奪うことであり、大罪なのです。もし、人が大罪を一つでも悔い改めずにこの世を去るなら、その罪はその人を永遠の地獄に真っ逆さまに突き落とすことになります。ですから、中絶という大罪を犯した人、あるいはそれに協力した人は、他の大罪と同じように、自分の魂が救済されるために、神に心から許しを請い、良い告解をする必要があります。

非カトリックの場合はどうなるのか?

結局のところ、告解をしない非カトリック教徒であっても、神は彼らを愛されているので、赦され、神の恩恵を受けることができます。ある司祭の説教では、主イエス・キリストが「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしによらずには誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14:6 -ドン・ボスコ口語訳)と言ったことは事実であると述べています。さらに「キリストはすべての人の入信を望み、唯一の教会を設立したが、信徒ではない人々が必ず地獄に行かなければならないということではない」と明言しています。

司祭は、神の赦しと恩恵は神秘的な方法で与えられ、時に、外見的、視覚的な兆候を伴わない、と説明していました。また私たちカトリック教徒には、秘跡という素晴らしく有利な点がありますが、神の恩恵は、何らかの形ですべての人に与えられている。と強調しています。

中絶をすると地獄に落ちる?

わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。(ヤコブの手紙3:2)

神の赦しと恩恵にあずかれば、地獄に行くことにはなりません。地獄に落ちるどのような罪からも救われます。

私の教区の司祭は「地獄に落ちるのは、カトリック、非カトリックを問わず、愛である神の赦しと恩恵を拒絶する人々である」と述べました。神は自由意志を何よりも大切にされるので、自ら神の恩恵を拒否する人々には、救いの手を差し伸べることはできないからです。

一方、カトリックであろうとなかろうと、神を愛し、神を怒らせたことを反省し、自分の罪を心から悔い改める人(いわゆる「完全悔悛」)は、中絶や他のどんな罪も神によって赦されます。主なる神は「わたしは悪人の死を喜ばないが、悪人がその道から立ち返って生きることを喜ぶ」(エゼキエル33:11)と言われています。

米国における中絶に関する世論について

1972年1月、アメリカ合衆国の最高裁判所は、ロー対ウェイド事件の判決において、中絶を禁止するすべての法律は違憲であるとの判断を示しました。しかし、2022年6月、最高裁はその判決を覆し、憲法で保護された中絶の権利は存在しないとの判決を下しました。つまり、50州のそれぞれが希望すれば、自由に中絶を禁止することができるようになったのです。

その後、ピュー・リサーチ・センターが行った調査によると、米国の成人の62%が「中絶は全て、またはほとんどのケースで合法であるべき」と回答し、36%が「全て、またはほとんどのケースで違法であるべき」と回答しました。別の調査においては、この問題に関し絶対主義的な見解を持つアメリカ人は比較的少ないという結果が出ています。

この調査では、無宗教者の83%がプロチョイスであることが判明しました。またキリスト教徒の中では、黒人プロテスタント(71%)と白人非福音派プロテスタント(61%)の過半数が、すべての場合またはほとんどの場合において中絶を合法とすべきとの立場をとっています。しかし、白人の福音派の4分の3近く(73%)は、中絶はすべての場合、あるいはほとんどの場合において違法であるべきだ、と答えています。

文化的なカトリック教徒はプロチョイスなのか?

さらに、カトリック教徒の53%が「中絶は道徳的に間違っていない」と考えているとのことです。

一見、衝撃的な結果ですが、もちろん、調査の質問の仕方を変えれば、違う結果になる可能性はあります。しかも、この数字には、カルチュラル・カトリック (文化的カトリック)と呼ばれる人たちが含まれていると考えられます。文化的カトリックとは、アンケートでカトリックにチェックを入れますが、カトリックの教義や道徳に関心がなく、定期的に教会に通うこともない人たちのことです。上記でのべたようにアンケートに回答した53%のカトリック教徒は、教義や道徳に無知であることは明らかです。

中絶が答えなのか?

中絶に反対する人たちに投げかけられる質問のひとつに、レイプの結果、女性が妊娠してしまったらどうするかというものがあります。カトリック教徒に限って言えば、中絶は選択肢に入りません。レイプ被害者が望まない妊娠をし、経済的・心理的負担から出産が困難な場合でも同様です。

レイプは米国では深刻な問題で、RAINNによると68秒に1回レイプが発生し、女性の6人に1人が生涯で性的被害を経験している、ということです。

しかし、中絶はレイプ被害者にとって良い結果をもたらさないことが判明しています。Live Actionによると、中絶を選択したレイプ・サバイバーの88%が後悔しているということです。また、中絶をしたレイプ被害者の93%が、同じ境遇の人に中絶を勧めない、と答えています。

レイプは女性が責任を負わない暴力行為であり、中絶は女性が道徳的責任を負う暴力行為なのです。(Students for life of America)

「私はレイプされることを選んだわけでもなく、妊娠することを選んだわけでもない。また、私の子供は私が妊娠することを望んだわけでもありません。私に起こった恐ろしい状況のせいで、彼の命を奪う権利はありません」 (Students for life of America)

こうした事実から見えてくる大きな問題は、「中絶は被害に遭った女性の解決策である」という誤った認識です。また、勇気を持って子どもを持つことを選択した女性に対する、福祉や地域支援の充実が必要です。私は、性犯罪の被害者が、被害に遭った後にさらなる苦しみを味わうことに、いつも憤りを感じています。中絶問題の権利を主張するだけでは、深刻な性犯罪状況の被害を失くす、ということにはならないからです。

ロー対ウェイド判決に協力したバーナード・N・ナタンソン博士

産婦人科医のバーナード・N・ナタンソンは、「中絶王」と呼ばれ、ロー対ウェイド判決で自民党側の勝利に貢献したプロチョイス活動家でした。けれども、超音波に映し出された胎児の映像が、ナタンソンの中絶に対する考えを変えるきっかけとなりました。


彼は、子宮の中で胎児が微笑み、伸びをし、足の指をくねらせているのを見たのです。また、胎児が中絶器具から離れようと縮こまる姿も見え、それは胎児が痛みを感じているサインだと感じたのです。超音波検査によって胎児の真実を知った彼は、「全米中絶廃止協会」を設立しました。(ナタンソン博士については、Inside the Vaticanをご参照ください)

ナタンソン博士は、中絶を 「アメリカ史上最も残酷なホロコースト 」と呼んでいます。胎児は肉の塊ではなく、中絶装置から逃れようとする人間の赤ん坊なのです。ピュー・リサーチ・センターによると、アメリカでは中絶が減少傾向にあるとのことです。その一方、薬物による中絶は増加傾向にあるのです。たとえば、州法で中絶を違法としている保守的なテキサス州でも、薬物による中絶は1100%増加しているのです(『セレブレーション・ライフ・マガジン』2023年冬号、30頁)。ナタンソン博士が言うところのホロコーストは、まだ終わっていないのです。

申命記命:命の選択

聖書では申命記30:19で神が命の選択を命じています。

「 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう」(ドン・ボスコ社口語訳)

「あなたは命を選ばなければならない」という言葉は、日本語訳(ドンボスコ口語訳)でも英語訳(RSV)でも、またギリシャ語訳、ラテン語訳、その他いくつかの英語訳でも、命令形になっています。十戒のひとつに 「汝殺すなかれ」という教えがありますが、これは「汝、無実の人を殺すなかれ」という意味です。つまり、中絶は殺人と同じである、ということなのです。

私たちの命を与えてくれた神が「命を選択しなさい」と命じました。私たち人間には、その神の命令を書き換える権利はないのです。

命の選択をした母親の子供

ライアン・ボンバーガー氏は、レイプによって生まれた子供であり、クリスチャンであり、デザイナーであり、エミー賞受賞アーティストであり、ソングライターであり、作家であり、「ファクトビスト」(ボンバーガー氏の造語。「アクティビスト」活動家と「ファクト」事実を組み合わせ)です。

この曲は、英語の “mean to be “という言葉が示すように、過去にも現在にも意味を持つ人生を与えてくれたことに感謝する、母親へのメッセージです。

MEANT TO BE” by Ryan Scott Bomberger

中絶の「権利」の側にいるのはどんな団体?

プロライフの教えを意識していても、中絶権を主張するニュースを見ていると、妊娠が性犯罪の結果であったり、健康上の問題があったりすると、女性が中絶してもいいのではと考えてしまうことがあります。しかし中絶を「権利」だと納得をさせるのは、狡猾な手口です。

中絶推進団体サタニック・テンプル

2019年に宗教団体として認可されたサタニック・テンプルは、中絶の 権利 のために活動を続けています。彼らは「実際には悪魔を崇拝していない」と述べていますが、興味深いことに、ウェブサイトには悪魔の画像を目立つように表示し、キリスト教とは相反する思想を積極的に支持しています。

このニュースを読みながら、「アヒルのように見え、アヒルのように聞こえるなら、それはおそらくアヒルなのだろう」という英語のことわざを思い出しました。サタニック・テンプルに関しても、「もし彼らが悪魔崇拝者のように見え、悪魔崇拝者のように行動するならば… 」と考えられます。

エクソシストであったガブリエレ・アモース師は、神の掟を進んで犯す人々が、堕天使に似ていることを説明しています。

「天使の原罪は、暗黙のうちに、あるいは明示的にサタン主義に固執する人々と同じである。サタンに従う天使と人間は、神の法に服従することなく、つまり自分の望むことをすることができ、誰にも従わず、自分が自分の神であるという3つの原則と人生の実践的なルールにその存在が基づいている」 (Catholic Exchange, April 19, 2023)

世俗の世界から眺めれば、中絶に関して、カトリック教会とサタニック・テンプルは、意見の異なる奇妙でカラフルな二つのグループに過ぎません。中絶反対派をとる人々が、自分の中絶反対の価値観を他人に押し付けなければ、問題は解決するように思われるはずです。

しかし、プロライフ活動にとって、受胎から自然死までの生命の権利は、宗教的教義であると同時に、自然法の基本原則であり、公正で安定した社会の基盤の一部であるのです。最も弱い立場の人々を保護しない社会は、やがて 強者が正しさを決める社会、すなわち、権力者であれば好きなことができる、というような無政府状態に陥ってしまうからです。

中絶の権利 や 選択の自由(女性が中絶するかどうかを選択すること)は、最初は良いアイデアに聞こえるかもしれませんが、このアイデアを支持する人々は、彼らの(認知されているかどうかにかかわらず)リーダーである悪魔のように、神ではない意図を持っているのです。そして、悪魔の目的は常に、社会の破壊、家族の破壊、教会の破壊、そして魂の破壊です。

ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)を超える人生

中絶というテーマは、政治的、道徳的、宗教的な多くの要因によって複雑になっています。最近の社会的傾向として、左翼的な傾向が強く、中絶に反対することは、「主流」社会の政治的正しさとはかけ離れたものとなっています。カトリック教徒は過激派とさえ呼ばれ、中絶クリニックの前で祈っただけで逮捕されたこともあります。暴動でも暴力でもなく、ただ祈っただけです。

中絶の問題は、宗教的信念と世俗的価値観の対立を伴うと考えられがちです。そのため、賛否両論があり、感情的になる人もいます。しかし、中絶は個人の感情だけで決められるような問題ではありません。この問題を明確に理解することは、宗教に対する感情によって左右されるものでもありません。 無神論者であっても、理性だけで中絶がいけないことだと理解することができるはずだからです。 (例えば、こちらのウェブ・ページ、Secularprolifeをご覧ください。)

生と死の選択は、政治的な正しさや宗教的教義だけではなく、人間の本性に左右されるものです。生命を選択することが過激派とみなされるような世の中になってはならないのです。

自然法と神の意志に基づき、すべての命が神の御心になるよう強く願います。

Image: Virgin Mary and baby Jesus