LGBTイデオロギーとカトリック信仰

最近のアメリカでは、LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー)のイデオロギーが強く支持され、賛美されています。それだけでなく、LGBT運動やウォーク・アジェンダ寛容派に、反する視点を持つことはタブーとされています。この運動の名称には長年にわたっていくつかの追加がなされ、現在では頭文字をとってLGBTQIAと呼ばれていますが、ここでは略してLGBTと表記します。

基本的に、この問題には2つの側面があります。寛容派は、LGBTを抑圧されたマイノリティとして感情的に同調し、個人や社会全体が神の愛を実践し、受け入れる方向に向かうべきだと主張します。それに対してもう一方は、人々を受け入れるか否かという観点ではなく、真理と偽りという観点でこの問題を捉えています。こちら側の主張は、魂の破壊につながるものは避けなければならないとします。トマス・アクィナスによって「相手の善を望むもの」と定義された愛の実践とし、どのような行動が破壊につながり、どのような行動が救いにつながるのかについて、人々が真実を理解するのを助けようと考えるからです。

LGBTプライド・マンスの始まりとは?

LGBTコミュニティを祝福する「プライド・マンス」の起源は、現在では 「ストーン・ウォールの暴動」あるいは 「ストーン・ウォールの反乱 」として知られている、ニューヨークでの一連の抗議活動です。この事件(あるいは一連の事件)に関する以下の記述は、ウィキから要約したものです。ゲイ・コミュニティの報告に基づいており、警察の証言は含まれていませんが、概ね正確であると考えられていました。

「ストーン・ウォール・イン」は、ジェノベーゼ犯罪一家と関係があり、露出度の多いゴーゴーダンサーがいたこともあり、たびたび警察の手入れをうけていました。警察の手入れは、犯罪を未然に防ぐ目的でしたが、そこに集うLGBTの人々に対する不当な扱いもありました。

1969年6月28日、ストーン・ウォール・インの夜は、いつもの夜ではありませんでした。その6日前、同性愛の権利に賛成していた女優ジュディ・ガーランドが亡くなり、常連客たちは感傷的な夜を過ごしていたからです。警察の手入れが始まったとき、彼らはジュディを偲んでストーンウォール・インに集まっていました。警察による度重なる手入れ、そして女優ジュディ・ガーランドの死が重なり、我慢の限界に達した彼らは警察官を攻撃し始めました。事態はたちまち暴動へと、エスカレートしてしまいます。その後の数日間さらなるエスカレートは、最終的には2,000人を超えるLGBTと、400人以上の警察官を巻き込んだ暴動へと発展したのでした。

1970年6月28日、暴動1周年を記念するパレードが開催されました。それ以来、6月はLGBTにとって記念すべき月となり、プライド・マンスが誕生したのです。

LGBTイデオロギーを支持した歴代アメリカ大統領

1999年6月、ビル・クリントン大統領はストーン・ウォール暴動にちなみ、6月をゲイ&レズビアン・プライド・マンスに指定しました。

2011年6月、バラク・オバマ大統領は、プライド・マンスが祝うカテゴリーに「バイセクシュアル」と「トランスジェンダー」を追加しました。

2012年、カトリック信徒であると公言しているジョー・バイデン副大統領(当時)は、カトリック・カテキズムを完全に無視した、同性婚を公に支持し始めました。それ以前、バイデンは上院議員として、一貫して同性婚に反対票を投じてきていたのです。けれどもLGBTのイデオロギー支持は、ビル・クリントンの時代から、民主党基本政策の主要な要素のひとつでした。つまり、民主党のバイデンが同性婚を支持したのは、政治的な理由によるものだと思われます。

イエスは「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)と言われました。バイデンは同性婚だけでなく、中絶の「権利」やトランスジェンダーの「ケア」(未成年者も含む性転換手術)も支持し、神よりも自分のキャリアを優先している、名目上のカトリックであることは明らかです。

道徳的問題への疑問

今年ワシントンD.C.で開催されたプライド・イベントは、6月10日にホワイトハウスで開催されたものも含め、多くの人々が参加しました。

米国では、自由にイベントを開催し、祝うことができます。(言うまでもなく、違法な、公的に許可されていないイベントを行うことはできません)つまり、LGBTがプライド・マンスを祝うことは、その行事に賛同する人々によって適切な方法で行われる限り、何の問題ないということになります。

しかし最近のプライド・パレードでは、通常ならわいせつ行為とみなされるような、過激なコスチュームを着た参加者もいました。子供に見せたくないようなパレードが、白昼堂々と行われたのです。

事件の背景にある問題

ChurchLaw & Taxというウェブサイトによると、合衆国憲法修正第1条は、信仰の自由と行動の自由という2つの概念を包含しており、信仰とは異なり、行いはコミュニティを守るために規制されることを述べています。

プライド・イベントの背後にある真の問題は、どのような活動、どのようなライフスタイルであったとしても、無宗派の(公式には無神論者でも世俗主義者でもない)米国政府が、大きな「誇り」をもって祝うべきである、としていることだといえます。

さらに政府主催のイベントにおいて、プライド・イベントでなければ容認できないような行動を容認する傾向がありました。プライド・パレードに参加している限り、何をやっても許されるという印象を受けます。パレードがあろうがなかろうが、最低限の公序良俗を守るよう要求するのは、理不尽な扱いなのでしょうか。上で述べたような行き過ぎた行為に対し、非差別的、合法的方法で対応することは不可能ではないはずだからです。

聖書は子供に有害?

LGBTイデオロギーの問題は、教会だけでなく、(最近では)学校にも影響を及ぼしています。LGBTイデオロギーを支持する本が、学校の図書館に置かれるようになり、その中には性的な内容が含まれた本もあります。

コロラド・パブリック・ラジオ(CPR)ニュースの6月29日付の記事によると、保守的な親たちは、LGBTQの本や性的な内容の本が、学校図書館に置かれることに抗議しているとのこです。これに反発をしたある保護者は、聖書には露骨で不適切な性的、暴力的内容が含まれている(と思われる)ため、学校図書館から聖書を取り除くべきだと要求しています。(以下CPR記事より)

「アメリカ図書館協会は、2022年に1,200件以上の異議申し立てを記録しており、20年以上前に図書館での検閲に関するデータを取り始めて以来、最も多い数となっている」

現在、アメリカの多くの州で、同様の問題が起きています。

ファティマの聖女ジャシンタは、永遠である教会の教えをないがしろにし、流行に従うことは危険だと警告しました。真理である聖書の教えと、移り変わる世俗的イデオロギーを教える書物を、あたかも同等であるかのように比較するのは大きな矛盾です。いずれにせよ、文化戦争が激化していることは間違いないといえます。

貞節と同性愛に関するカトリック・カテキズム

同性愛に関するカトリックの懸念は、新しいものではありません。近年、教会は常に教えてきたことを繰り返してきただけです。例えば1986年10月、ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(後の教皇ベネディクト16世)は、ローマの司教団に宛てた書簡の中で、同性愛について次のように指摘しています。(Letter to the Bishops of the Catholic Church on the Pastoral Care of Homosexual Persons (vatican.va))

「今日、教会内でさえも、同性愛の状態をあたかも無秩序であるかのように受け入れ、同性愛活動を容認するよう、教会に大きな圧力をかける人々が増えている」

では、同性愛に関するカトリックの教義とは、一体どのようなものなのでしょうか。カトリック教会のカテキズムには次のように書かれています。(2357-2358項)

2357 同性愛とは、同性に対して排他的または優位的な性的魅力を感じる男性同士または女性同士の関係を指す。同性愛は、何世紀にもわたり、さまざまな文化の中で、実に多様な形をとってきた。その心理的な原因は、ほとんど解明されていない。同性愛行為を重大な堕落の行為とする聖書に基づき、伝統は常に「同性愛行為は本質的に無秩序である」*と宣言してきた。その行為は自然法に反している。彼らは性行為を生命の賜物に対して閉ざしている。真の情愛と性的均衡のとれた状態から生じるものではない。どのような状況においても、それらは承認され得ない。

2358 根深い同性愛の傾向を持つ男女の数は、無視できない数である。客観的には無秩序であるこの傾向は、彼らの多くにとって試練である。彼らは尊敬、思いやり、感受性(優しさ)をもって受け入れられなければならない。彼らに対する不当な差別の兆候はすべて避けなければならない。このような人々は、自分の人生において神のみこころを全うし、もし彼らがキリスト者であるならば、そのような状態から遭遇するかもしれない困難を、主の十字架の犠牲と一つにするよう召されているのである。

* 創世記 19:1-29、ローマ 1:24-27、1コリント6:10、1テモ 1:10.

** CDF, Persona humana 8.

自由と尊厳を守るために

同性愛の実践は、欲望(七つの大罪の一つ)の罪を犯す一つの方法に過ぎません。カテキズムは、他の多くの形態の欲望も扱っており、そのいくつかは、要約の部分で、次のように言及されています。(パラグラフ2396)

2396 貞操に著しく反する罪の中には、自慰、姦淫、ポルノグラフィー、同性愛の実践がある。

㊟カテキズムに関する日本語翻訳は、私が翻訳したものであり教会公式翻訳ではありません。教会公式日本語翻訳が私の手元にないため、英語版のカトリック・カテキズムから翻訳しています。

ラッツィンガー枢機卿は、同性愛の問題は複雑であり、神学的にバランスの取れた助言が必要であると説明しています。彼はさらに、性的能力の使用は夫婦間においてのみ良いものであることを明らかにしています。さらに、救いを妨げる誤った考えを教会が拒絶することは、個人の尊厳や自由を制限することではなく、むしろ自由と尊厳を守ることだと強調しています。(LGBTに対する真の司牧的アプローチは、罪を認め、セクシュアリティに関する真理を宣言しなければならない)

教会は、罪は罪であると教えることに非があるのか?

Jesus Preaching (1652) Rembrandt

「カトリック教会はLGBTを拒絶している 」と言い、さらに 「神は愛であり、私たちが互いに愛し合うことを望んでおられるのだから、私はすべての人を愛し、受け入れるよう努めている」と言う人がいます。そのような意見を持つ人は、LGBTを受け入れないのは、神の教えを実践しない嫌悪者である と指摘します。

そのような人々に、私はこのように答えます。「罪を罪と呼ぶことは、憎むことと同じではない。神はすべての罪人(言い換えればすべての人)を愛し、私たちにもそうするように命じておられる」と。

それだけではなく神は、罪を憎み、罪から救うことを望んでおられます。混乱を避けるために、神はどのようなことが罪であるかを、聖書、そして教会を通し、明確に教えておられます。聖書には「人には正しいと思われる道があるが、その終わりは死に至る道である」(箴言14:12)とあります。神がこのようなことをしたのは、(神が意地悪なのではなく)、罪が不幸につながるからであり、神は私たちが幸せになることを望んでおられるからです。

教会が 「人々を拒絶している 」とされる理由については、次のように説明されます。カトリック教会はすべての信徒に、カトリックのカテキズムと道徳に忠実であることを求めます。言い換えれば、教会の教えを信じ、それを実践する意志のある人は誰でも教会に入ることができます。たとえ信徒が正しく信じ、実践していなくても、悔い改めて赦され、生活を改めれば、立派なカトリック信徒であり続けることができます。教会は罪を拒絶するのであって、人を拒絶するのではありません。

教会の教えを信じないなら、教会に入らなければよいだけです。けれども、教会の教えを信じる人々を「憎しみを抱く者」と定義し、非難するのは、正直でも公正でもありません。

LGBTQIA+プライド・ミサに反対するアンナ=ケイト・ハウエル

文化戦争の一環であるLGBTイデオロギーは、すでにカトリック教会にも浸透しています。例えば、6月14日には、ジョー・バイデン大統領の教会でもある、イエズス会運営のホーリィ・トリニティ教会で第3回LGBTQIA+プライド・ミサが行われました。このミサの反対派は、カトリック教義に反していないか明らかでない点について指摘しています。(Catholic With Same-Sex Attraction Calls on Cdl. Gregory to Cancel DC ‘Pride Mass’ – LifeSite

ミサに反対したSSA(同性に魅力を感じる)で、回心したアンナ=ケイト・ハウエルは、31歳の神学修士を目指している学生です。彼女は過去に、性的に乱れた罪深い生活を送り、26歳の時には同性婚もしたと告白しています。以下は、アンナがホーリィ・トリニティ教会の教区長である、ワシントンD.C.のグレゴリー枢機卿に送った手紙の要点となります。

アンナの手紙

LGBTQは私たちのアイデンティティではない。私たちは同性に惹かれることを経験しているのであり、罪の名前(プライド)で呼ばれることを好まない。それは高慢の罪である。

カトリック教会の教えを明確にすることは、これまで以上に重要である。教会内に曖昧さを悪用し、武器として利用する人々がいることが懸念されるからだ。

私たちは罪への衝動(同性へ魅力を感じる)を祝っておらず、教会外の人を誤解させたくない。

「だがプライドに参加したからといって、私たちが行進するすべての人、すべての山車、すべてのメッセージに同意することにはならない」と言われるかもしれない。しかし、プランド・ペアレントフッドに、多額の寄付をするカトリック教徒についても同じことが言える。どちらの主張も馬鹿げている。プランド・ペアレントフッドが主に中絶手術を行うために存在するのと同様に、「プライド・マンス」が主に性的な罪を祝うためのものであることは誰もが知っている。カトリック信者が、どちらかを支持することは恥ずべきことである。

グレゴリウス枢機卿、私はカトリック信徒として、あなたが、私が出会うすべての人の最善を想定することが私の希望である。その慈愛の精神に基づき、私はあなたが混乱を招き、信徒と信徒ではない人々を同様に(教会に対し)恥ずべきことに陥れ、同性に惹かれる人に対する教会の証しを、害することを望む人物ではないと信じることにしている。

私のような者に、尊敬と優しさをもって寄り添うというのが、あなたの願いであると信じている。あなたは、私たちが全能の神によって尊厳を与えられた人間であることを、決して忘れたくないと信じる。私たちが苦しむかもしれない、いかなる乱れた気質をも、超越する尊厳を持った存在であることを決して忘れないというのが、あなたの願いであると信じている。これらのことがあなたに真実であると信じ、私はキリストにある姉妹として、どうかプライド・ミサを止めてくださいと心から願っているのである。……この行事が行われることは、何の益もなく、大きな害をもたらすだろう。

最後に、アンナは神の祝福を祈る言葉で手紙を締めくくっています。

十字架を背負い私に従いなさい

イエスは弟子たちに「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マタイ16:24)と説きました。これは簡単なことではありません。アンナが経験した苦しみは、並大抵のものではなかったに違いありません。私はアンナの手紙に、自分の十字架を背負う覚悟した人にある特別な強さと説得力を見出します。

D.C.のグレゴリー枢機卿はミサの中止を命じたませんでした。しかし私は、彼女の手紙が私や他の多くのカトリック信者に、信仰を守り続ける勇気を与えてくれたと確信しています。

枢機卿が教区の司祭や信者の良き模範となり、何が正しいのかを明確に示し、魂の死にいたることがないよう導いてくださることを祈ります。

Image: An ancient painting of a greek tomb inside the archaeological museum of paestum in italy