聖母マリアの七つの悲しみの祝日

9月15日は御子イエスの生涯から、七つの悲しみを受けた、聖母マリアの悲しみの祝日です。この日は得に、聖母の悲しみに心を合わせ祈ります。

悲しみの聖母マリアへの献身の始まり

カトリックにはこの祝日が、教会で正式にはじまる以前より、「悲しみの聖母マリア」に祈る伝統と習慣がありました。

1221年ドイツにあるシェーナウ修道院で、はじめて悲しみのマリアの祭壇が設置されました。同じ頃、フランシスコ修道会により、悲しみのマリアへのグレゴリアン賛歌「スターバト・マーテル」が作曲されています。

Sequentia: Stabat Mater

セルヴィト修道会と悲しみの聖母

1233年頃のイタリアで、七人の貴族の息子がフィレンツェを去り、セナリオ山に向かいました。七人は、そこで隠遁生活をはじめます。彼らの霊性は、彼らのような生活を望む多くの人々をひきつけ、セルヴィト修道会が誕生します。正式には「聖母マリアのしもべ達」として知られる彼らの修道会は、特に聖母マリアへの悲しみに捧げられました。その聖母への献身を広めるために、彼らは「悲しみの聖母マリア」への祈りをはじめ、9月15日を悲しみの聖母の祝日としました。

七つの悲しみのチャップレット

セルヴィト修道会が広める信心の一つに「七つの悲しみのチャップレット」があります。このチャップレットを祈るには、次のような悔い改めの祈りから始めます。(英語版と同じ教会正式翻訳が見つからなかったため、一般的に使用されている悔い改めの祈りを引用)

悔い改めの祈り

神よ、わたしは罪を犯し、悪を行い、
あなたに背きました。
御子イエス・キリストの救いの恵みによって、
わたしの罪を取り去り、洗い清めてください。
救いの喜びを与え、あなたのいぶきを送って、
喜び仕える心を支えてください。
わたしはあなたの道を進みます。
アーメン。

そして、それぞれの悲しみに「主の祈り」を1回、「アヴェ・マリア」を七回唱えながら、7つの悲しみを黙想します。

  1. 老シメオンの預言によって悲しむ聖母
  2. 聖母はヨセフと幼子イエスとともにエジプトへ逃避する
  3. 幼子イエスをエルサレム神殿で見失う
  4. 十字架の道行きでのイエスとの出会い
  5. 聖母は十字架のもとにたたずむ
  6. イエスの亡骸を抱く聖母
  7. 聖母は墓に葬られたイエスを見る

最後に、聖母の涙を思い起こし、「アヴェ・マリア」の祈りを三回唱えます。

チャップレットの終わりに、次の祈りを加えるのが慣例となっています。(教会正式翻訳ではありません)

(先唱)最も悲しみ深き聖母よ、私たちのためにお祈りください。

(答唱)私たちが、キリストの約束にかなう者となりますように。

祈りましょう。

主イエス・キリストよ

今も、死の時も、あなたのあわれみの王座の前で

あなたの苦い受難の時に

悲しみの剣に刺し貫かれた

最も聖なる魂をもつ聖母マリアによる

私たちのための執り成しを願います。

世界の救い主である主

父と聖霊と共に終わりのない神であるイエス・キリストによって。

アーメン

聖母の七つの約束

「私は地上にいるすべての人を見回し、もし少しでも私を憐れみ、私の悲しみを瞑想する人がいるかどうか確かめますが、非常に少ないことがわかります。—聖母から聖ブリジットへのメッセ―ジ」

14世紀、スウェーデンの聖ブリジットに聖母が現れました。聖母は、多くの人が聖母の悲しみを気に留めていないことを嘆きました。聖母は、悲しみのチャプレットを毎日祈る者に、七つの恵みを授けることを約束されました。

  1. わたしは彼らの家族に平和をもたらします。
  2. 彼らは神の神秘に関して教え導かれます。
  3. わたしは彼らの苦しみを慰め、彼らの仕事に同行します。
  4. わが神、聖なる御子の愛すべき御心、あるいは彼らの魂の聖化に反しない限り、彼らが求めるだけのものを与えましょう。
  5. わたしは、地獄の敵との霊的な戦い、彼らの人生のあらゆる瞬間において彼らを守ります。
  6. わたしは彼らの死の瞬間に、目に見える形で彼らを助けるでしょう。彼らは母の顔を見るでしょう。
  7. 私はわが神、聖なる御子からこの恩寵を得ました。私の涙と悲しみへの、この献身を広める者は、この地上の生から、直接に永遠の幸福へと導かれるでしょう。彼らのすべての罪は赦され、御子は彼らの永遠の慰めと喜びとなるでしょうから。 (Source: https://ourladysorrows.com/seven-promises/)

18世紀以降の悲しみの聖母の祝日の変遷

1727年、教皇ベネディクト13世(在位1724-1730年)は、棕櫚の主日の前の金曜日に悲しみの聖母の祝日を制定し、教皇ベネディクト13世と教皇クレメンス12世(在位1730-1740年)はともに、信者に「七つの悲しみのチャップレット」を祈るよう勧めました。

1809年、教皇ピオ7世はナポレオンの捕虜となりました。1814年、自由を取り戻した教皇は、ローマに凱旋した後、9月15日を悲しみの聖母の第二の祝日とすることを宣言し、神に感謝を捧げました。9月15日は、9月14日の聖十字架昇架の祝日の翌日にあたり、この祝日にふさわしい日です。

こうして、毎年、春(聖金曜日)と秋(聖十字架の昇架)の二つの十字架の祝日がありました。それぞれの祝日には、主の十字架のもとに立つ聖母を表すために、悲しみの聖母の祝日がすぐ後に置かれていました。

1955年、教皇ピオ12世は、棕櫚の主日前の金曜日の祝日を廃止します。しかし、9月15日の祝日はそのままとされ、1969年に行われた大規模な典礼変更の後も、今日まで教会の暦に残されています。

悲しみの聖母とシドッティ司祭

1【指揮者によって。「はるかな沈黙の鳩」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがガトでペリシテ人に捕えられたとき。】

2神よ、わたしを憐れんでください。

わたしは人に踏みにじられています。

戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ

3陥れようとする者が

絶えることなくわたしを踏みにじります。

高くいます方よ

多くの者がわたしに戦いを挑みます。

4恐れをいだくとき

わたしはあなたに依り頼みます。

詩篇56:1-4

日本には、イタリアの画家が描いたとされる有名な「悲しみの聖母」の絵があります。通称 「親指の聖母」と呼ばれるこの絵は、日本で殉教した最後のイタリア人司祭、ジョバンニ・バッティスタ・シドッティが所有していました。

日本へ渡るためにサムライに変装したシドッティ司祭

シドッティ司祭は1668年、シチリアのパレルモに生まれました。聖職者の道を歩むことを決意した彼は、パレルモのイエズス会大学とサピエンツァ大学で哲学と神学の学位を得ます。

シドッティ司祭は、日本に多くの殉教者がいることを知り、宣教師として日本に行くことを決意します。教皇クレメンス11世から日本行きの許可を得たシドッティ司祭は、まず日本人居留地のあるマニラに向かいました。そこで日本語と日本の習慣を学び、日本の通貨を調達し、サムライに変装して日本に向かいました。

1708年10月11日、シドッティ司祭は屋久島に上陸することに成功しました。彼の黒い木綿の袋の中には、ミサの道具、十字架、わずかな身の回りの品の他に、「親指の聖母」の絵が入っていました。しかし彼は、上陸後すぐに発見されてしまいます。

捕らえられたシドッティ司祭は、400里(約1,571キロメートル)の道のりを籠に乗せられて江戸まで運ばれました。この長旅の間、彼の足は衰え、やっと江戸に到着したときには、立つことすらできなかったと伝えられています。

シドッティ司祭と新井白石との交流

江戸に到着したシドッティ司祭は、新井白石(1657-1725: 旗本・政治家・朱子学者)の尋問を受けました。その際、新井はシドッティの描いた聖母像の模写をし、「目はくぼんで、鼻筋が高く、うるわしき面体也」と書き添えています。

新井白石は司祭と話すうち、その人柄と教養に感銘を受ました。そして拷問などせず、茗荷谷(現在の東京都文京区小日向)の切支丹屋敷に軟禁することとします。新井はこの時のシドッティとの交流を、『西洋紀聞』1713年頃(せいようきぶん)、『采覧異言』1713-1725年(さいらんいげん)に記しています。

殉教を選んだシドッティ司祭

当時としては破格の待遇を受けていたシドッティ司祭ですが、宣教活動は厳しく禁じられていました。けれども彼は密かに、彼の身の回りを世話していた老夫婦、長介とおはるに洗礼を授けていました。その後、奉行所で木の十字架をつけた二人が発見され、洗礼を受けたことが明るみに出てしまいます。シドッティ司祭は、二人と共に地下の座敷牢に移されてしまいます。

1714年10月21日、シドッティ司祭は47歳で殉教しました。老夫婦も司祭と共に殉教しました。シドッティ司祭は死の直前まで、長介とおはるを励まし続けたと言われています。シドッティ司祭と老夫婦の遺骨は、キリシタンの屋敷裏門脇に埋葬されました。

イタリアの科学、文学、芸術の普及に貢献したジョヴァンニ・トレッカーニ研究所の記述には、座敷牢との関連はなく、三人が小さな穴に入れられ、腐臭が充満する穴の中に閉じ込められた、とされています。また、シドッティ司祭の死亡日については複数の異なる情報があることが記述されています。

「親指の聖母」の愛称で親しまれる日本の国宝

シドッティ司祭が所有していた、青いベールをかぶり、頬に小さな涙を浮かべた聖母の絵は、現在、東京の国立博物館に所蔵されています。

聖母は青いヴェールの下に紫の衣をまとっています。カトリックでは、紫は聖金曜日と四旬節の断食期に用いられる典礼色です。(一方、黒は死者の日と葬儀に用いられる)この絵で聖母が紫の衣をまとっているのは、御子イエスの苦しみ、そして全人類の罪と苦しみを悲しんでいることを暗示しています。

「親指の聖母」を描いた画家はカルロ・ドルチなのか?

カルロ・ドルチ(1616-1686)は生前、敬虔なカトリック信者として知られ、その宗教的熱意で、主題を情感豊かに描きました。日本にある「親指の聖母」は、その作風や構図がドルチの既知の作品と似ていることから、ドルチの作品である可能性が高いと一般に考えられています。

イタリア、ボルゲーゼ・ギャラリーにある、同じ名で呼ばれる「親指の聖母」の絵は、シドッティの聖母と酷似しており、ドルチ作と考えられている理由を裏付けています。それだけでなく、どちらの絵にも、悲しみの聖母に対する深い信仰と献身が感情的に表れています。

ただし、かつてシドッティ司祭が所有していたこの絵が、実際にカルロ・ドルチの作品であるかどうかは確定されていません。彼の娘で、同じく彼の工房で働いていたアニューゼ・ドルチ(1635-1686)の可能性もあるからです。彼女の作品はカルロと作風が非常に似ており、彼女の作品を特定することは難しいとされています。

発見されたシドッティ司祭の遺骨

最後のバテレン シドッチ神父へのレクイエム – YouTube
Yakushima Heart TV

2014年7月24日、サレジオ会修道士レナート・タッシナーリ氏によりすでに特定されていた東京都文京区の切支丹屋敷屋敷跡で、綿密な調査が行われました。その結果、現場から三体の人骨が発見されました。ミトコンドリアDNA鑑定の結果、一体はイタリアのトスカーナ出身であることが判明します。さらに調査を進めたところ、この人物の身長は170cm以上であり、記録されているシドッティ司祭の身長、175.5-178.5cmとも一致、身元が確認されました。

この人物(シドッティ司祭)はキリスト教式に土葬されており、墓石には十字架の碑があったと報告されていました。国立科学博物館は、この頭蓋骨からシドッティ司祭の顔を復元に成功します。約300年の時を経て、日本の歴史に大きな影響を与えた宣教師の顔が明らかになったのです。(復元した顔は、上のビデオの23秒のところから見ることができます)

シドッティ司祭と二人の信徒の列副調査の開始

2019年、シドッティ司祭と二人の信徒、長助、おはるを、聖人とするため列副手続きが開始されました。列副調査には、マリオ・トルチヴィア司祭(Fr.Mario Torcivia)フランシスコ修道会のマリオ・カンドウィッチ司祭(Fr.Mario Canducci)、田中昇司祭が携わっています。

2019年の上智大学のシドッチ司祭のシンポジウムで、シドッティ司祭と同じパレルモ、シチリア出身のマリオ・トルチヴィア神父は、以下のように述べています。

「シドッティ神父は強い信仰にもとづき、日本の宣教活動を希望し、たとえ命に代えてもキリスト教を棄てないという覚悟でした.…(略)長助、はるが尊い殉教者として神の栄光のもとに導かれ この美しい国で人々に再び知られることを願っています」

歴史の再評価がすすむシドティ神父
Yakushima Heart TV

二人の信徒の洗礼に命をささげたシドッティ司祭

39 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

-ヘブライ人への手紙 10:39

あるキリスト教徒ではない日本の方が私の知人に、シドッティ司祭が長介とおはるに洗礼を授けることを決めたのは残念だった、そうしなければ彼らの命は助かったのに、と話したそうです。長介とおはるへ同情的なこの意見は、シドッティ司祭が宣教師としての熱意のあまり、強引に洗礼を授けたのでは、という考えに基づいているのかもしれません。しかし、最後までキリストと教会に忠実だったシドッティ司祭には、そのようなことはなかったはずです。

カトリック教会における洗礼は、本人の自由意志に基づいて授けられるます。そのため、洗礼を望まない成人に洗礼を授けることは、教会法によって固く禁じられています。シドッティ司祭が長介とおはるに洗礼を授けたのは、彼らがそれを望んだからです。

新井白石の問いかけにシドッティ司祭は、「私はキリスト教を宣べ伝えるため、そして人々を助けるためにここに来ました 」と答えました。司祭として神から与えられた使命は、魂の救済です。その使命を果たすため、福音書にあるように、持ち物をすっかり売り払い(マタイ13:45、19:21)、弟子をつくり洗礼を授け(マタイ28:19)、命を捧げた(ヨハネ15:13)のです。

シドッティ司祭の生涯を研究しているマリオ・カンドヴィッチ氏は、シドッティ司祭について「長助とおはるに洗礼をさずけたことは大きな喜びであり、福音が伝えられる日が来るだろうと確信をもって、そのままいったのだろう(いった-恐らく殉教の意味)」と話しています。

剣に貫かれた聖母の心

34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(ルカ2:34-35)

ヨハネパウロ2世は1984年2月11日の書簡、「SALVIFICI DOLORIS」のなかで、神は時に私たちが神をより深く知るために、悲しみを用いることがあると述べています。

聖母の悲しみの日の福音には、老シメオンが聖母に伝えた言葉があります(ルカ2:34-35)。そこでは人の心にある思いがあらわにされ、マリアの心が剣で刺し貫かれるとあります。シドッティ司祭、老夫婦の受難と殉教は、魂の救いであると同時に、聖母マリアの深い悲しみだったはずです。そして「親指の聖母」は、日本の罪深さに最も悲しんだはずです。

シドッティ記念教会

1988年2月14日、シドッティ司祭が上陸した岬にシドッティ記念教会(サンタ・マリア教会)が建設されました。この記念教会は、シドッティ司祭に感銘を受け、イタリアから屋久島に移り住んだ聖ザベリオ宣教会の故レンゾ・コンタリーニ司祭の働きで完成しました。教会内には「親指の聖母」をモチーフにしたステンドグラスが収められています。

東京目黒にあるサレジオ会のカトリック碑文谷教会も、シドッティ司祭の「親指の聖母」に由来し、「江戸のサンタ・マリア教会」として建設されました。ここには「親指の聖母」の絵のレプリカがあります。

いつの日か、シドッティ司祭の親指の聖母が教会に戻り、悲しみの聖母へのミサが捧げられることを祈ります。

Source: One version of the Chaplet of Seven Sorrows can be found at number 383 of the Pre-Vatican II “Raccoltà” or Manual of Indulgences (Sacra Paenitentiaria Apostolica. Enchiridion Indulgentiarum… Typis Polyglottis Vaticanis MCML: Versio Anglica. New York, Benziger Brothers. 1957.)

image: Mater Dolorosa by Carlo Dolci

聖ジャンヌ・ダルク:異端審問(3)

天の啓示を受けたジャンヌは、1429年にオルレアンを解放し、シャルル7世をフランス王に即位させました。しかし翌1430年、ジャンヌはブルゴーニュ軍に捕らえられ、ルクセンブルク公ジャン2世の後見人のもとに置かれます。7月14日、ブルゴーニュ公は、イギリス王太子の名のもとに、ジャンヌを要求したボーヴェ司教、コーション(のちの異端審問裁判官)に、1万リーブル・トゥルノワで彼女を売り渡しました。

異端の罪に問われたジャンヌは、裁判にかけられることになります。ジャンヌが直面している戦いは、聖書にあるような「血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの―エペソ6:12」となります。

ボールヴォワールの牢獄塔から飛び降りたジャンヌ

ジャンヌはボーレヴォワール城の塔に囚われていました。監禁中、彼女はコンピエーニュがイギリスに占領されようとしていること、イギリスが女性や子供を含むすべての民衆を虐殺しようとしていることを知ります。彼女は、コンピエーニュの救出に向かおうと、60フィート(約18メートル)の塔から脱出しようとしました。紐を何かにくくりつけ(紐をどうやって手に入れたのか、何にくくりつけたのかは不明)、窓から身を下ろし脱出しましたが、その途中で落下してしまいます。その高さにもかかわらず、彼女は一命を取り留め、塔の下で意識を失って倒れているところを発見されました。


ジャンヌは、それまでにも何度か脱走を試みていました。そのため、この脱走劇の後、さらに厳しい監視下に置かれるようになってしまいます。ジャンヌに現れる聖カタリナは,、彼女に語りかけ、彼女の行いを咎め、神の許しを請うように告げました。ジャンヌはその命に従い、司祭に告解をしています。聖カタリナはジャンヌに、イギリス軍がコンピエーニュを奪還できないだろうと告げ、その通りになります。


裁判でジャンヌは、コンピエーニュでの大虐殺計画の知らせを聞いて、「善良な人々を破滅させてまで生き続けるくらいなら、死んだほうがましだ と感じた」と語りました。異端審問官達はこの供述をもとに、彼女を自殺未遂で訴ったえたのです。

1万ポンド・トゥルノワの価値とは?

金銭を愛することは、すべての悪の根である(1 テモテへの手紙 6:10

ジャンヌが売られた金額の価値は、裁判記録にある彼女の鎧の値段を目安にして考えてみることができます。

あるウェブサイトによると、シャルル7世がジャンヌのために用意した鎧兜の値段は100エキュスで、2500ソル、125ポンド・トゥルノワに相当したとあります。

続けて「比較すると、この鎧兜は最も安価な装備品の2倍の値段でありながら、最も高価な装備品の8倍も安かった」と説明されています。(Suit of Armour | Joan of Arc | Jeanne-darc.info

単純計算すると、ブルゴーニュ公がコションから受け取った金額は、ジャンヌが装着していたような鎧80着分、あるいは当時作られていた最も高価な鎧10着分に相当するということになります。

ブルゴーニュ公爵は、この世で一時的な富を得ることを選択しました。彼が受け取った金貨は、ジャンヌの報酬であっただけではありません。それはこの世の神(Ⅱコリント4:4)である悪魔からの支払いだったのではないでしょうか。この世の富を支配するのは悪魔であり、天に富を積むことを教える神を裏切っているからです。

権力に執着したピエール・コーション司教

ボーヴェ司教、ピエール・コーションは、ジャンヌの異端審問裁判と火刑執行に関わった人物として名を残しました。1413年、不祥事を起こしパリから追放されるまで、イギリスからパリ大学でのポストを与えられています。記録によれば、彼は学識があり、野心に満ち、自分の邪魔をする者を徹底的に排除しようとする人物だったそうです。

Tombeau de Pierre Cauchon

ボーヴェはコーションの教区の中心都市でしたが、イギリス領とフランス領の国境近くに位置していたため、たびたび戦火に見舞われました。ブルゴーニュ公の側につき、最強の支援者となったコーションは、褒美としてボーヴェの教会を与えられました。その幸運に満足しなかったコーションは、ウィンチェスター家との結びつきを利用して、ルーアン教区も手に入れようとしていました。この時の彼の企ては失敗しています。けれどもそれで「諦めた」と、いうわけではなかったのです。

ジャンヌに鼓舞され率いられたフランス軍がオルレアンを解放したことは、ボーヴェにとって脅威となりました。実際、コーションはボーヴェからの逃亡を余儀なくされています。コーションは、ジャンヌの成功が自分の不幸であることを憎しみとともに理解していたのです。

ですから、偶然、コーションの教区で、ジャンヌが捕縛されたことは、彼にとり思いがけない幸運でした。イギリスは、ジャンヌに魔女の烙印を押し、シャルル7世が神によって選ばれた王でないことを証明したがっています。コーションは裁判官として、ジャンヌを魔女と断罪することができるのです。それだけではなく、イギリスの敵であるジャンヌ排除の成功で、念願のルーアン大司教になれる可能性も見えてきたのです。

美徳よりも悪徳を選んだコーション

コーションは学識ある聖職者でしたから、神の目から見て何が罪であるかを知らないはずがありません。それにもかかわらず、彼の富と地位への欲望はとどまるところを知りませんでした。聖書には、その様な人について「貪欲な目は、自分の持ち分に満足せず、蓄財に身を削るという悪は、魂を干からびさせる」(シラ14:9)と書かれています。

彼は司教でありながら、神の栄光よりも自身の満足を求めたことは明らかです。コーションは、ジャンヌの裁判以前から、真実の追求よりも賄賂を好んでいた人物として知られていたようです。コーションはブルゴーニュ公からジャンヌを買い取り、イギリスに売り渡しました。もし彼が、ジャンヌをイギリスに渡さなければ、少なくとも火刑に処されなかったに違いありません。

ジャンヌの死を待ち望んだベッドフォード公爵

Duke of Bedford by the British Library.

「英国人は百人の兵士よりもジャンヌ・ダルクを恐れ、彼女の名前そのものが敵の恐怖の源であった」(Fabré, Lucien. (Fabré, Lucien. Joan of Arc. London: Odhams. 1955.)

ジャンヌには多くの敵がいました。その最も強力な敵の一人である、ベッドフォード公爵は、誰よりもジャンヌのカリスマ性を認めていたようです。彼はジャンヌの死を、切望していました。ジャンヌのせいで、イギリス軍の士気は下がり、敵対していない都市でさえ反英感情が高まり、経済は大打撃を受けていたからです

ベッドフォードの忠実な共謀者であったコーションは、ジャンヌの素性を調査しましたが、魔女であることを突き止めることはできませんでした。ベッドフォードは、教会がジャンヌを火刑にすることができないのなら、自分に渡すべきだと要求しました。ある意味、この時すでに彼女の運命は決まってしまっていたのです。

華々しい経歴を誇るベットフォード公

ジャンヌの勝利が奇跡的であったのかは、敵であったベットフォード公を知ると、より明らかになります。ベットフォード公は、戦闘経験もない田舎娘など問題にもならない、当時最も戦略に長けた軍人の一人であったからです。

ベットフォード公の才能は、戦いだけでなく政治にも発揮されています。1415年、そして1417-19年にかけ、中尉としてイギリスの政務も担当しています。またヘンリー5世と共にイギリス王位継承権を認めるトロワ条約(1420年)を締結させました。また1424年、ヴェルヌイユでのスコットランドとフランスの争いに参戦、イギリスに勝利をもたらしています。

ベットフォード公は、ジャンヌの火刑の後、ヘンリー6世がフランスで戴冠式を行えるよう手配をしています。1431年12月16日、ヘンリー6世はパリのノートルダムで戴冠式を行いました。けれどもイギリスに不利に傾いた状況は、その後も改善されることはありませんでした。1435年9月14日、ベットフォード公はルーアンで死去、その一週間後に百年戦争は終結しました。

John, duke of Bedford – Wars of the Roses

なぜシャルル7世 はジャンヌを救おうとしなかったのか?

Charles VII

このような苦境にいるジャンヌを、王になったシャルルは、熱心に助けることはしませんでした。シャルルがジャンヌに無関心だったのは、政治的な抜け目のなさによるものなのか、それとも単なる恩知らずによるものなのか、歴史家の間でも意見が分かれています。

恐らくシャルルは、イギリスからジャンヌを取り戻そうとすることで、新たな戦争が始まる可能性を恐れたのかもしれません。あるいは、ラ・トレモイユのようなジャンヌの敵から、彼女を助けないよう吹き込まれたのかもしれません。シャルル王が喜んで支払った身代金は、ごく一般的な金額でした。シャルルは、多額の身代金を払いたくなかったと言われています。

ジャンヌはシャルルに、彼女には一年しか時間がないと常々言っていました。シャルルにとり捕縛されたジャンヌは、神の恩恵を失った存在であり助ける価値がない、と判断した可能性も否定できません。

ジャンヌの裁判について真実を要求したシャルル

ジャンヌの死後、シャルル7世は(可能であれば)汚名を晴らすために、彼女の復権裁判を要求しています。多くの人は、シャルルが復権裁判を要求したのは、自分の王位継承権が神からのものであることを証明する利己的な目的のためだったと考えています。

一方、ジャンヌが処刑されたと聞き、シャルルの心は傷ついたと言われています。優柔不断で臆病な王は、センチメンタルな気分も味わっていたに違いありません。

1453年、シャルルはイギリス軍をほぼすべて撃破して百年戦争を終結させ、フランスに平和と秩序の回復をもたらしました。その功績にもかかわらず、彼はジャンヌ・ダルクを見捨てた王として最もよく記憶されています。

ジャンヌは精神病だったのか?

フランスを勝利に導くよう、彼女を鼓舞した神秘的な声について、彼女の証言は次のように記述されています。

ジャンヌはまた、自分の声は大天使ミカエル、聖女カタリナ、聖女マルガリタであったと公判で述べ、さらに次のように述べた。「私は肉眼で、あなたがたを見るのと同じように、はっきりと彼らを見ました」

ジャンヌの声や幻視については論争があり、一部の精神科医は、ジャンヌが幻聴を伴う精神疾患の一種である統合失調症であった可能性を示唆しています。その一方で、教育を受けていないにもかかわらず、彼女には高い知性と記憶力、明晰さがあったことも認めています。これらの情報を分析し、彼女について書いたのは、精神病に精通した医師達です。

医学ライターのクリフォード・アレンは、統合失調は通常15歳ごろから現れ始めると報告しています。ジャンヌの場合、13歳で声を聞いたということから、症状が早くから現れていたことになりますが、決してありえないことではないと指摘しています。(The Schizophrenia of Joan of Arc – Medievalists.net

ジャンヌは戦術に長けていた?

一方、彼女に関する多くの不思議な逸話は、精神病や単なる偶然の一致として片付けるのは難しいといえます。仮に声の原因が、統合失調症だったとしましょう。その場合、ジャンヌは統合失調症の10代の若者が軍隊を率い、勝利に導いた歴史上唯一の例となります。

ジャンヌの復権裁判において、テルメ卿、シャルトル伯爵、騎士のチバウド・ダルマニャック卿は、「軍隊を指揮し、命令を下し、戦闘を整え、兵士を鼓舞することにおいて、ジャンヌ・ダルクは最も熟練した隊長達に匹敵するほど戦術に長けていた」と証言しています。戦闘経験のないジャンヌが、経験豊富な兵士を驚かせるような戦い方、特に大砲の扱い方を知っていたとは論理的に説明しがたいのです。

神を冒涜した兵士の死

「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出エジプト記20:7)

声の真意について明確な答えはありません。はっきりしているのは、ジャンヌはその声に従い、多くの戦いで正確な予知を行ったということです。裁判では多くの人が証言しましたが、彼女の神秘的な予知能力に関する興味深い逸話が、パスクレル司祭によって語られています。

パスクレル司祭は、ジャンヌがある城に入る途中、兵士が若い乙女(ジャンヌ)が通り過ぎるのを見て、粗野な言葉を使ったと語っています。その兵士に向かって乙女は、神を冒涜していると叱責し、その兵士は、一時間以内に天の玉座の前に召されるいう裁きの前に、召喚されるまさにその時に、神を否定したのだと付け加えました。その兵士は1時間以内に溺死しました。これがパスクレル司祭の証言です。

㊟パスクレル司祭は、ジャンヌが城に入る途中、若い乙女が通り過ぎるのを見たある兵士が、下品な言葉を発したのを目撃しー(つまり)失礼な言葉に(神の)誓いを付け足したと語る。


パスクレル司祭の証言から、私たちはジョアンの予知能力について知ることができます。人は時に、家族や身近な人の悲劇を予知することができます。しかしジャンヌは、見ず知らずの兵士の死をはっきりと知っていたのです。


当時、兵士が神の名を軽々しく使うことは珍しくありませんでした。けれども、ジャンヌはそのような、軽々しく神を冒涜する行為を厳しく批判しました。現代人のほとんどは、この逸話に登場する兵士のように、神の名を軽率に使うことがもたらす結果に、気づいていないに違いありません。

異端審問での逸話

ジャンヌの裁判は1431年2月21日月曜日に始まりました。断食と祈りの四旬節は3月に始まることが多いのですが、1431年は2月23日(水)から始まっています。イエスの受難に心を合わせ、ジャンヌはどのような四旬節の祈りを捧げたのでしょうか。

神は確かに彼女を守っておられたのです。裁判では、司教コーションと審問官たちがジャンヌを陥れる罠を仕掛けていました。やがて彼らは、ジャンヌが簡単には罠にかからないことを知ることになるのです。

悪魔の名において

「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(ヨハネ8:44)

ある時コーションは裁判の間、ジャンヌが、教導官を務めたラ・フォンテーヌと、二人のドミニカン修道士から助言を受けているのを目撃します。コーションは、その光景を見ると、すぐに彼の策略を邪魔するつもりだと気がつき、怒りに我を忘れました。そして彼らに対し「悪魔の名において、沈黙しろ!」と叫んだのです。それだけではなく、教皇とシノドスへのジャンヌの訴えを記録から削除し、何事もなかったかのように装ったのです。

ジャンヌに友好的な助言をした、二人のドミニカン修道士は、彼らの長上の機転で救われました。ですが、ラ・フォンテーヌは裁判が終わる前にルーアンから逃亡しています。

悪魔はコーションを通し、働いていたのでしょう。神の名を軽率に口にすることが神を否定することであるならば、悪魔の名によって命令を下すことは、あらゆるものの中で最も恐ろしい冒涜に違いありません。

異端審問官達を驚かしたジャンヌの答え

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ 10:16)

コーションを筆頭とする敵は、彼女に不利な証言をひきだすために、ありとあらゆる手をつくしました。ジャンヌには、正式な弁護人さえもつけられなかったのです。それにも関わらずジャンヌは、神学的な知識に精通している審問官たちが、驚くような答えを返しています。

例えば、コーションはジャンヌに「あなたは神の寵愛を受けていると思うか」と尋ねました。

ジャンヌは「もし私がそうでないなら、神が私をそこに置かれますように、もし私がそうなら、神が私をそうされますように。もし私が神の恩寵の中にいないと知っていたら、私はこの世で一番悲しい生き物になるでしょう」と答えました。

この答えに審問官達は、驚かされました。なぜならコーションのこの質問は、ジャンヌのような素朴な田舎娘には、知るすべのないトリックが隠されていたからです。

コーションの質問の罠

わたしの魂は屈み込んでいました。

彼らはわたしの足もとに網を仕掛け

わたしの前に落とし穴を掘りましたが

その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。

(詩編57:7)

カトリック教会の教えによれば、人が「恩恵の状態にある」と絶対的に断言することは、僭越(せんえつ)の罪となります。そのため、もしジャンヌが「恩恵の状態」である断言すれば、審問官たちは彼女が罪を犯している、すなわち悪に傾倒していると言うことができたのです。

一方、もし彼女が恩恵の状態にあることを否定すれば、彼女は自分が十分に悔い改めていない罪人であることを認めることになります。どちらの答えでも、ジャンヌは罪の状態で行動していたことになります。言い換えれば、彼女を導いていたのは、神ではなく悪魔だったということになるのです。

モーゼの律法とジャンヌの男装

女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。(申命記 22:5)

コーションは、彼女の証言にまったく反する数々の偽証拠と罪状を用いて、ジャンヌを異端として告発しました。恐らく、ジャンヌに対する立件がかなり弱いことを恐れ、何としても彼女を異端と断定したかったのだと考えられます。コーションは、ジャンヌが男物の服を着ていることを非難し、申命記22:5のモーセの律法を引用しました。

それだけでなく、ジャンヌの敵は、幻視や啓示を受けたことはなく、神の命令で行動したというのは嘘で、神を冒涜する異端者であるという旨の声明書に署名させるために、恐ろしい策略をめぐらせていました。

審問官達は、彼女の魂を救うという口実で、拷問を計画しました。ジャンヌに恐怖を与えるため、彼らは拷問器具を見せましたが、彼女は屈しませんでした。

異端審問による聖ジャンヌの裁判の記録や、死後の復権裁判の記録には、ジャンヌの素朴でまっすぐな人柄を窺い知ることができます。また家族、声、ジャンヌによるとされる奇跡について詳しく知ることができる逸話が数多く残されています (残念ながら、ここでそのすべてを紹介することはできません)。多くの逸話は、ジャンヌの聖性をはっきりと示すだけでなく、ジャンヌの聖性がコーションや審問官たちに決して認められなかったことも示しています。

聖体への冒涜

裁判員たちがジャンヌに対して行った非難のひとつは、女性が男装して聖体拝領を受けることは冒涜に等しいというものでした。

しかし、男女の服装に関するモーゼの掟が、実際にキリスト者の良心を拘束するかどうかは明らかではありません。簡潔に言えば、イエス・キリストは神であるため、その神聖な権威を用いてモーゼとの古代の契約を成就し、新しい契約を結ばれたからです。その際、モーゼの道徳律はすべて支持されましたが、民法や儀式律は支持されませんでした。

さらに、申命記の男性の服装に関する箇所はあまり知られておらず、熱心に探さなければ見つけることは困難であったでしょう。コーションと異端審問官が、時間と労力をかけて獲物を執拗に追い詰めたことがよく分かります。

時代遅れとみなされていた儀式律法

男女の服装に関するモーゼの掟が、実際に、キリスト教徒に対する権威を発揮するのかどうかは明らかではありません。簡潔に言えば、イエス・キリストは神であるため、その神聖な権威を用いてモーゼとの古代の契約を成就し、新しい契約を結ばれました。その際、モーゼの道徳律はすべて保持されましたが、民法や儀式律に対してはされませんでした。衣服に関する律法は、神学者たちは通常、時代遅れの儀式律法に属すると考えているものです。恐らくそれが、男装をし、聖体を拝領するという問題を取り上げた理由でしょう。聖体を持ち出すことで、彼女を 「冒涜 」の罪に問うことができたからです。

Image: The Trial of Joan of Arc, by Louis Maurice Boutet de Monvel 

Sources:

Fabré, Lucien. Joan of Arc. London: Odhams. 1955.

Gower, Ronald Sutherland, Lord. Joan of Arc. London: J.C. 1893.

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