9月15日は御子イエスの生涯から、七つの悲しみを受けた、聖母マリアの悲しみの祝日です。この日は得に、聖母の悲しみに心を合わせ祈ります。
悲しみの聖母マリアへの献身の始まり
カトリックにはこの祝日が、教会で正式にはじまる以前より、「悲しみの聖母マリア」に祈る伝統と習慣がありました。
1221年ドイツにあるシェーナウ修道院で、はじめて悲しみのマリアの祭壇が設置されました。同じ頃、フランシスコ修道会により、悲しみのマリアへのグレゴリアン賛歌「スターバト・マーテル」が作曲されています。
セルヴィト修道会と悲しみの聖母
1233年頃のイタリアで、七人の貴族の息子がフィレンツェを去り、セナリオ山に向かいました。七人は、そこで隠遁生活をはじめます。彼らの霊性は、彼らのような生活を望む多くの人々をひきつけ、セルヴィト修道会が誕生します。正式には「聖母マリアのしもべ達」として知られる彼らの修道会は、特に聖母マリアへの悲しみに捧げられました。その聖母への献身を広めるために、彼らは「悲しみの聖母マリア」への祈りをはじめ、9月15日を悲しみの聖母の祝日としました。
七つの悲しみのチャップレット
セルヴィト修道会が広める信心の一つに「七つの悲しみのチャップレット」があります。このチャップレットを祈るには、次のような悔い改めの祈りから始めます。(英語版と同じ教会正式翻訳が見つからなかったため、一般的に使用されている悔い改めの祈りを引用)
悔い改めの祈り
神よ、わたしは罪を犯し、悪を行い、
あなたに背きました。
御子イエス・キリストの救いの恵みによって、
わたしの罪を取り去り、洗い清めてください。
救いの喜びを与え、あなたのいぶきを送って、
喜び仕える心を支えてください。
わたしはあなたの道を進みます。
アーメン。
そして、それぞれの悲しみに「主の祈り」を1回、「アヴェ・マリア」を七回唱えながら、7つの悲しみを黙想します。
- 老シメオンの預言によって悲しむ聖母
- 聖母はヨセフと幼子イエスとともにエジプトへ逃避する
- 幼子イエスをエルサレム神殿で見失う
- 十字架の道行きでのイエスとの出会い
- 聖母は十字架のもとにたたずむ
- イエスの亡骸を抱く聖母
- 聖母は墓に葬られたイエスを見る
最後に、聖母の涙を思い起こし、「アヴェ・マリア」の祈りを三回唱えます。
チャップレットの終わりに、次の祈りを加えるのが慣例となっています。(教会正式翻訳ではありません)
(先唱)最も悲しみ深き聖母よ、私たちのためにお祈りください。
(答唱)私たちが、キリストの約束にかなう者となりますように。
祈りましょう。
主イエス・キリストよ
今も、死の時も、あなたのあわれみの王座の前で
あなたの苦い受難の時に
悲しみの剣に刺し貫かれた
最も聖なる魂をもつ聖母マリアによる
私たちのための執り成しを願います。
世界の救い主である主
父と聖霊と共に終わりのない神であるイエス・キリストによって。
アーメン
聖母の七つの約束
「私は地上にいるすべての人を見回し、もし少しでも私を憐れみ、私の悲しみを瞑想する人がいるかどうか確かめますが、非常に少ないことがわかります。—聖母から聖ブリジットへのメッセ―ジ」
14世紀、スウェーデンの聖ブリジットに聖母が現れました。聖母は、多くの人が聖母の悲しみを気に留めていないことを嘆きました。聖母は、悲しみのチャプレットを毎日祈る者に、七つの恵みを授けることを約束されました。
- わたしは彼らの家族に平和をもたらします。
- 彼らは神の神秘に関して教え導かれます。
- わたしは彼らの苦しみを慰め、彼らの仕事に同行します。
- わが神、聖なる御子の愛すべき御心、あるいは彼らの魂の聖化に反しない限り、彼らが求めるだけのものを与えましょう。
- わたしは、地獄の敵との霊的な戦い、彼らの人生のあらゆる瞬間において彼らを守ります。
- わたしは彼らの死の瞬間に、目に見える形で彼らを助けるでしょう。彼らは母の顔を見るでしょう。
- 私はわが神、聖なる御子からこの恩寵を得ました。私の涙と悲しみへの、この献身を広める者は、この地上の生から、直接に永遠の幸福へと導かれるでしょう。彼らのすべての罪は赦され、御子は彼らの永遠の慰めと喜びとなるでしょうから。 (Source: https://ourladysorrows.com/seven-promises/)
18世紀以降の悲しみの聖母の祝日の変遷
1727年、教皇ベネディクト13世(在位1724-1730年)は、棕櫚の主日の前の金曜日に悲しみの聖母の祝日を制定し、教皇ベネディクト13世と教皇クレメンス12世(在位1730-1740年)はともに、信者に「七つの悲しみのチャップレット」を祈るよう勧めました。
1809年、教皇ピオ7世はナポレオンの捕虜となりました。1814年、自由を取り戻した教皇は、ローマに凱旋した後、9月15日を悲しみの聖母の第二の祝日とすることを宣言し、神に感謝を捧げました。9月15日は、9月14日の聖十字架昇架の祝日の翌日にあたり、この祝日にふさわしい日です。
こうして、毎年、春(聖金曜日)と秋(聖十字架の昇架)の二つの十字架の祝日がありました。それぞれの祝日には、主の十字架のもとに立つ聖母を表すために、悲しみの聖母の祝日がすぐ後に置かれていました。
1955年、教皇ピオ12世は、棕櫚の主日前の金曜日の祝日を廃止します。しかし、9月15日の祝日はそのままとされ、1969年に行われた大規模な典礼変更の後も、今日まで教会の暦に残されています。
悲しみの聖母とシドッティ司祭
1【指揮者によって。「はるかな沈黙の鳩」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがガトでペリシテ人に捕えられたとき。】
2神よ、わたしを憐れんでください。
わたしは人に踏みにじられています。
戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ
3陥れようとする者が
絶えることなくわたしを踏みにじります。
高くいます方よ
多くの者がわたしに戦いを挑みます。
4恐れをいだくとき
わたしはあなたに依り頼みます。
詩篇56:1-4
日本には、イタリアの画家が描いたとされる有名な「悲しみの聖母」の絵があります。通称 「親指の聖母」と呼ばれるこの絵は、日本で殉教した最後のイタリア人司祭、ジョバンニ・バッティスタ・シドッティが所有していました。
日本へ渡るためにサムライに変装したシドッティ司祭
シドッティ司祭は1668年、シチリアのパレルモに生まれました。聖職者の道を歩むことを決意した彼は、パレルモのイエズス会大学とサピエンツァ大学で哲学と神学の学位を得ます。
シドッティ司祭は、日本に多くの殉教者がいることを知り、宣教師として日本に行くことを決意します。教皇クレメンス11世から日本行きの許可を得たシドッティ司祭は、まず日本人居留地のあるマニラに向かいました。そこで日本語と日本の習慣を学び、日本の通貨を調達し、サムライに変装して日本に向かいました。
1708年10月11日、シドッティ司祭は屋久島に上陸することに成功しました。彼の黒い木綿の袋の中には、ミサの道具、十字架、わずかな身の回りの品の他に、「親指の聖母」の絵が入っていました。しかし彼は、上陸後すぐに発見されてしまいます。
捕らえられたシドッティ司祭は、400里(約1,571キロメートル)の道のりを籠に乗せられて江戸まで運ばれました。この長旅の間、彼の足は衰え、やっと江戸に到着したときには、立つことすらできなかったと伝えられています。
シドッティ司祭と新井白石との交流
江戸に到着したシドッティ司祭は、新井白石(1657-1725: 旗本・政治家・朱子学者)の尋問を受けました。その際、新井はシドッティの描いた聖母像の模写をし、「目はくぼんで、鼻筋が高く、うるわしき面体也」と書き添えています。
新井白石は司祭と話すうち、その人柄と教養に感銘を受ました。そして拷問などせず、茗荷谷(現在の東京都文京区小日向)の切支丹屋敷に軟禁することとします。新井はこの時のシドッティとの交流を、『西洋紀聞』1713年頃(せいようきぶん)、『采覧異言』1713-1725年(さいらんいげん)に記しています。
殉教を選んだシドッティ司祭
当時としては破格の待遇を受けていたシドッティ司祭ですが、宣教活動は厳しく禁じられていました。けれども彼は密かに、彼の身の回りを世話していた老夫婦、長介とおはるに洗礼を授けていました。その後、奉行所で木の十字架をつけた二人が発見され、洗礼を受けたことが明るみに出てしまいます。シドッティ司祭は、二人と共に地下の座敷牢に移されてしまいます。
1714年10月21日、シドッティ司祭は47歳で殉教しました。老夫婦も司祭と共に殉教しました。シドッティ司祭は死の直前まで、長介とおはるを励まし続けたと言われています。シドッティ司祭と老夫婦の遺骨は、キリシタンの屋敷裏門脇に埋葬されました。
イタリアの科学、文学、芸術の普及に貢献したジョヴァンニ・トレッカーニ研究所の記述には、座敷牢との関連はなく、三人が小さな穴に入れられ、腐臭が充満する穴の中に閉じ込められた、とされています。また、シドッティ司祭の死亡日については複数の異なる情報があることが記述されています。
「親指の聖母」の愛称で親しまれる日本の国宝
シドッティ司祭が所有していた、青いベールをかぶり、頬に小さな涙を浮かべた聖母の絵は、現在、東京の国立博物館に所蔵されています。
聖母は青いヴェールの下に紫の衣をまとっています。カトリックでは、紫は聖金曜日と四旬節の断食期に用いられる典礼色です。(一方、黒は死者の日と葬儀に用いられる)この絵で聖母が紫の衣をまとっているのは、御子イエスの苦しみ、そして全人類の罪と苦しみを悲しんでいることを暗示しています。
「親指の聖母」を描いた画家はカルロ・ドルチなのか?
カルロ・ドルチ(1616-1686)は生前、敬虔なカトリック信者として知られ、その宗教的熱意で、主題を情感豊かに描きました。日本にある「親指の聖母」は、その作風や構図がドルチの既知の作品と似ていることから、ドルチの作品である可能性が高いと一般に考えられています。
イタリア、ボルゲーゼ・ギャラリーにある、同じ名で呼ばれる「親指の聖母」の絵は、シドッティの聖母と酷似しており、ドルチ作と考えられている理由を裏付けています。それだけでなく、どちらの絵にも、悲しみの聖母に対する深い信仰と献身が感情的に表れています。
ただし、かつてシドッティ司祭が所有していたこの絵が、実際にカルロ・ドルチの作品であるかどうかは確定されていません。彼の娘で、同じく彼の工房で働いていたアニューゼ・ドルチ(1635-1686)の可能性もあるからです。彼女の作品はカルロと作風が非常に似ており、彼女の作品を特定することは難しいとされています。
発見されたシドッティ司祭の遺骨
Yakushima Heart TV
2014年7月24日、サレジオ会修道士レナート・タッシナーリ氏によりすでに特定されていた東京都文京区の切支丹屋敷屋敷跡で、綿密な調査が行われました。その結果、現場から三体の人骨が発見されました。ミトコンドリアDNA鑑定の結果、一体はイタリアのトスカーナ出身であることが判明します。さらに調査を進めたところ、この人物の身長は170cm以上であり、記録されているシドッティ司祭の身長、175.5-178.5cmとも一致、身元が確認されました。
この人物(シドッティ司祭)はキリスト教式に土葬されており、墓石には十字架の碑があったと報告されていました。国立科学博物館は、この頭蓋骨からシドッティ司祭の顔を復元に成功します。約300年の時を経て、日本の歴史に大きな影響を与えた宣教師の顔が明らかになったのです。(復元した顔は、上のビデオの23秒のところから見ることができます)
シドッティ司祭と二人の信徒の列副調査の開始
2019年、シドッティ司祭と二人の信徒、長助、おはるを、聖人とするため列副手続きが開始されました。列副調査には、マリオ・トルチヴィア司祭(Fr.Mario Torcivia)フランシスコ修道会のマリオ・カンドウィッチ司祭(Fr.Mario Canducci)、田中昇司祭が携わっています。
2019年の上智大学のシドッチ司祭のシンポジウムで、シドッティ司祭と同じパレルモ、シチリア出身のマリオ・トルチヴィア神父は、以下のように述べています。
「シドッティ神父は強い信仰にもとづき、日本の宣教活動を希望し、たとえ命に代えてもキリスト教を棄てないという覚悟でした.…(略)長助、はるが尊い殉教者として神の栄光のもとに導かれ この美しい国で人々に再び知られることを願っています」
Yakushima Heart TV
二人の信徒の洗礼に命をささげたシドッティ司祭
39 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。
-ヘブライ人への手紙 10:39
あるキリスト教徒ではない日本の方が私の知人に、シドッティ司祭が長介とおはるに洗礼を授けることを決めたのは残念だった、そうしなければ彼らの命は助かったのに、と話したそうです。長介とおはるへ同情的なこの意見は、シドッティ司祭が宣教師としての熱意のあまり、強引に洗礼を授けたのでは、という考えに基づいているのかもしれません。しかし、最後までキリストと教会に忠実だったシドッティ司祭には、そのようなことはなかったはずです。
カトリック教会における洗礼は、本人の自由意志に基づいて授けられるます。そのため、洗礼を望まない成人に洗礼を授けることは、教会法によって固く禁じられています。シドッティ司祭が長介とおはるに洗礼を授けたのは、彼らがそれを望んだからです。
新井白石の問いかけにシドッティ司祭は、「私はキリスト教を宣べ伝えるため、そして人々を助けるためにここに来ました 」と答えました。司祭として神から与えられた使命は、魂の救済です。その使命を果たすため、福音書にあるように、持ち物をすっかり売り払い(マタイ13:45、19:21)、弟子をつくり洗礼を授け(マタイ28:19)、命を捧げた(ヨハネ15:13)のです。
シドッティ司祭の生涯を研究しているマリオ・カンドヴィッチ氏は、シドッティ司祭について「長助とおはるに洗礼をさずけたことは大きな喜びであり、福音が伝えられる日が来るだろうと確信をもって、そのままいったのだろう(いった-恐らく殉教の意味)」と話しています。
剣に貫かれた聖母の心
34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(ルカ2:34-35)
ヨハネパウロ2世は1984年2月11日の書簡、「SALVIFICI DOLORIS」のなかで、神は時に私たちが神をより深く知るために、悲しみを用いることがあると述べています。
聖母の悲しみの日の福音には、老シメオンが聖母に伝えた言葉があります(ルカ2:34-35)。そこでは人の心にある思いがあらわにされ、マリアの心が剣で刺し貫かれるとあります。シドッティ司祭、老夫婦の受難と殉教は、魂の救いであると同時に、聖母マリアの深い悲しみだったはずです。そして「親指の聖母」は、日本の罪深さに最も悲しんだはずです。
シドッティ記念教会
1988年2月14日、シドッティ司祭が上陸した岬にシドッティ記念教会(サンタ・マリア教会)が建設されました。この記念教会は、シドッティ司祭に感銘を受け、イタリアから屋久島に移り住んだ聖ザベリオ宣教会の故レンゾ・コンタリーニ司祭の働きで完成しました。教会内には「親指の聖母」をモチーフにしたステンドグラスが収められています。
東京目黒にあるサレジオ会のカトリック碑文谷教会も、シドッティ司祭の「親指の聖母」に由来し、「江戸のサンタ・マリア教会」として建設されました。ここには「親指の聖母」の絵のレプリカがあります。
いつの日か、シドッティ司祭の親指の聖母が教会に戻り、悲しみの聖母へのミサが捧げられることを祈ります。
Source: One version of the Chaplet of Seven Sorrows can be found at number 383 of the Pre-Vatican II “Raccoltà” or Manual of Indulgences (Sacra Paenitentiaria Apostolica. Enchiridion Indulgentiarum… Typis Polyglottis Vaticanis MCML: Versio Anglica. New York, Benziger Brothers. 1957.)