ご聖体の祝日おめでとうございます。
ご聖体はカトリック教徒の信仰の中心です。ミサの中で聖体パンと葡萄酒は、司祭の奉献の言葉により、キリスト(子なる神)の体と血に変容すると信じられています。ミサで司祭が用いる奉献の言葉は、イエスご自身の言葉です。それは、神のみ言葉であり、神のみ言葉には力があるのです。 この神秘的な変化は実体変化として知られています。(実体変化についての説明はこちらになります)
750年頃、イタリアのランチャーノ市(当時はアンクサヌムとして知られていた)で、ご聖体の偉大な奇跡が起こりました。「ランチャーノの奇跡」は、カトリック教会によって正式に認定された、最も古く最大のご聖体の奇跡です。
最初で最大のご聖体の奇跡
奇跡は、あるバジル修道士がミサを捧げている最中に起こりました。修道士がご聖体のパンと葡萄酒を奉献した後、それらが修道士の目の前で主の肉体と血に変容したのです。修道士は感動のあまり涙を流しました。そして、その場に居合わせて奇跡を目撃した人々は、神に罪を告白し、神の赦しを乞うたと記録されています。
この奇跡のニュースは、奇跡を目撃した人々によって瞬く間に広まりました。その後、教会による調査がされ、この出来事は最初の聖体の奇跡として認められました。変容したパンと葡萄酒は特別な象牙の箱に保管されています。
残念なことに、この奇跡に関する目撃者の証言の原本は、この奇跡に関する最初の調査の詳細とともに、16世紀以前のある時期に失われています。
ミサは何語で行われたのか。
皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。
マタイ26:26
ランチャーノの奇跡のミサは、ギリシャ語で行われた東方教会のミサだったでしょうか。それともラテン語で行われた西方教会のミサだったのでしょうか。
東西教会の分裂以前(8世紀)教会は一つでした。異なる言語でも、どのような儀式でも、世界中の司教は互いに、そして教皇と交わりを持っていました。ランチャーノの奇跡が起こったミサは、前述したようにバジル修道士によって行われました。
バジル修道士はローマ帝国の東部だったギリシャ語圏の出身です。東ローマ帝国のキリスト教徒は異なる言語を話すだけでなく、ミサを行う際にも異なる典礼(または「儀式」)を用いていました。
ラテン語(または「西洋」)礼典でミサを行う場合、司祭酵母のないパンを使わなければなりません。しかし、ビザンチン(東方)式では、酵母を入れたパンを使わなければなりません。しかし奇跡のパンは、西方教会で使用する種無し聖体パンの形をしています。その聖体パンの形から、ランチャーノの奇跡のミサはラテン語で行われたと言えます。
聖バジルの修道士たちはなぜローマにいたのか?
ローマ・カトリック教会には、ベネディクト会、フランシスコ会(フランシスコ会はいくつかの修道会に分かれている)、ドミニコ会、カルメル会など、多くの修道会があります。東方正教会では、聖バジル修道会のみが存在し、356年の創立以来、ほとんど変わっていません。
残念なことに、8世紀の東ローマ帝国には、イコンを作ったり崇めたりすることは罪であるとするイコノクラスト(聖像破壊)という異端を信じる東ローマ皇帝がいました。その結果、多くのギリシア語を話すキリスト教徒がイタリアに逃れました。そのなかには多くのバジリ修道士もいたのです。
ランチャーノの町と聖ロンギヌス
しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。(ヨハネ19:34)
正確な時期は不明ですが、町の名前は “アンクサヌム “から “ランチャーノ”へと変わりました。”ランチャーノ”という名前の由来は定かではありません。一つの言い伝えでは、聖ロンギヌスがイエスの脇腹を刺した槍にちなみ、ラテン語で「槍」を意味する “ランチャー”から命名されたと言われています。
奇跡は、聖レゴンチィウス(聖ロンギヌス)と聖ドミチィアヌスに捧げられた小さな教会で起こりました。聖ロンギヌスと聖ドミティアヌスとは、どんな人物だったのでしょうか。
伝説では、ロンギヌスは主のおん脇を槍で刺した百人隊長でした。彼は、イエスの復活後にキリスト教徒となり、後に殉教したと伝えられています。ロンギヌスはアンクサヌム(ランチャーノと呼ばれる以前の名前)の町で生まれたとされていますので、彼の生誕地の教会が彼に捧げられたのは、ごく自然なことと言えます。
聖ドミチィアヌスは、異端と熱心に戦った6世紀の司祭です。異端の皇帝から、イタリアへ逃れたバジリ修道士の状況を知ると、聖ドミチィアヌスを守護聖人に選んだのも納得がいきます。
疑いを抱いていた修道士
AD700年頃、当時は聖レゴンチィウス教会と呼ばれていたこの教会に、バジル会の修道士がいた。
その修道士の一人が、聖別された聖体が本当に主の御体なのか、聖別されたぶどう酒が本当に主の御血なのかを疑っていた。
修道士はミサを始めた。奉献の言葉を唱えた後、彼は聖体が肉となり、ぶどう酒が血となるのを見た。
彼はそれをその場にいたすべての人に示し、皆に知らせた。
今日でも、肉は1つであり、血は5つの不均等な部分に分かれている。
それらは今日、ある聖フランシスコ教会で見ることができる。(碑文より)
礼拝堂の碑文には、ある修道士が聖体パンの中に主がおられると信じることができず苦悩していたところ、聖体パンと葡萄酒が聖変化されただけでなく、キリストの御体と御血が感覚的に知覚できるようになるという奇跡が起こったと記されています。
ウィリアム・サンダース司祭は古い写本に、この修道士が「この世の学問には精通していたが、神の学問には無知であった 」と説明しています。
この短い一節から、修道士は多くの勉強をしてきた学者タイプの人間だと想像できます。「神の学問に無知であった」とありますから、神学について、そして神が彼にどのように生きることを望んでおられるのかについて学ぶ必要があったということでしょう。
この無名の修道士は、疑った司祭としてだけではなく、疑いと闘った司祭として記憶されています。単に肩をすくめて、その疑いをを受け入れるのではなく、疑いをなくそうとした事実は、彼がどれほど真剣に信仰に取り組んでいたかを示しています。修道士は、使徒聖トマスのように、自分の疑いが正しいと固執せず、謙虚になり、ついに信じたのです。
もう一つの奇跡
奇跡が起こり、聖体パンは目に見える人間の肉となり、葡萄酒は大きさの異なる5つの血の塊となりました。キリストが磔にされた時に受けた傷は5つですが、葡萄酒はその同じ数血の塊になったのです。
1574年、さらなる奇跡が起こりました。その大きさの違う5つの血の塊の重さが、すべて同じ重さだったのです。それだけでなく、5つの血の塊を合わせた重さが、それぞれの一つずつの血の塊の重さと同じでした。
その後、血の塊の重さに起きた奇跡的な現象は、1637年、1770年、1886年に司教団が行った調査では再現されていません。1970年代の調査では、塊1つの重さは0.56オンス(約15.88グラム)と計測されました。
科学的に証明された奇跡
遺物は1970年から1973年にかけて世界保健機関(WHO)によって科学的に調査され、1981年には、より高度な技術を用いて再調査されました。
この研究に携わった研究分析チームには、人体解剖学と生理学を専門とする2人の医師、1人の教授、1人の医師が含まれていました。
研究者の一人は、解剖学、病理組織学、化学、臨床顕微鏡学の教授であり、アレッツォの病院の医師長であるオドアルド・リノーリ博士で、もう一人の研究者は、シエナ大学人体解剖学名誉教授のルッジェーロ・ベルテッリ博士です。
肉と血の塊の分析は科学的基準に従って行われ、その結果が公表されました。
血に変化した葡萄酒
ランチャーノ血の塊の血清蛋白質組成は、新鮮な人間の血液と同じであることが判明しました。これらの血の塊はAB型陰性で、塩化物、リン、マグネシウム、カリウム、ナトリウム、カルシウムなど、ミネラルが含まれていました。
ABマイナスの血液型を持つ人は人口の1%未満で、非常に珍しい血液型です。スペインのオビエドのスダリウム(手拭)、アルジャントゥイユの聖骸布、トリノのシュラウドも、すべてAB陰性です。
人間の肉へと変化した聖体パン
調査の結果、変質した聖体は間違いなく肉でした。特に、心筋(心臓の壁)と心内膜(すべての心腔を覆う繊維状の弾性組織の膜)から採取された心筋組織だったのです。これは訓練を受けた病理学者でなければ不可能なことでした。
注目すべきは、これらの血と肉が、12世紀を経ても新鮮で、自然の状態で保存されていたことです。検査した医師たちは、保存料の痕跡がなかったと証言しました。リノリ教授は再検査後、血液も肉も死体から採取されたようなものではなく、むしろ、新鮮な人間の肉と血の特徴を持っていること強調しています。
科学的知見に関する情報についてのリンク
https://infallible-catholic.blogspot.com/2012/04/eucharistic-miracle-of-lanciano-italy.htm
聖遺物の教会
奇跡の聖遺物は、1175年にバジル修道士たちが去るまで、ランチャーノ教会に保管されていたと考えられています。しかし12世紀末、教会と修道院は放棄されましたが、教皇インノチェント3世の承認を得て、ベネディクト会に引き渡されます。その後、教区司教がフランシスコ会に譲渡しました。
教会を受け継いだフランシスコ会修道士たちは、何世紀にもわたる地震で教会堂が荒廃していることに気づきました。1258年、既存の教会堂の上に新しいフランシスコ会教会堂と修道院が完成しました。
聖遺物は、1636年にヴァルセッカ礼拝堂に移されるまで、その新しいフランシスコ教会の祭壇に保管され続けました。1902年、聖遺物は教会内の新しい祭壇に移され、それ以来そこに安置されています。
聖フランシスコ教会のウェブサイトへのリンク:Santuario del Miracolo Eucaristico – Dominus meus et Deus meus
私達の姿でもある疑い深いバジル修道士
ある司祭は、聖体についての説教で「聖体におけるイエス・キリストの存在を信じたくても疑うことは大罪ではないが、全面的に否定することは大罪である 」と疑うことの小さな罪と大罪についての違いを、わかりやすく説明してくれました。
ランチャーノ教会のガイドであったシルヴィオ・ディ・ジャンクローチェ司祭は、「ランチャーノの奇跡の契機となった疑い深いバジリア修道士は、私たち一人ひとりの姿を現している」と述べています。
ジョー・ブクラスのカトリック通信(2023年9月29日)によると、米国のカトリック信者の約3分の2は、イエスがご聖体の中におられると信じている、とのことです。聖体の復活が起こり始めています。
残りの3分の1のカトリック信者は、聖体におけるキリストの現存を信じていない、ということになります。教会のルールは ”もし信じないのであれば、聖体拝領をしてはならない、信じていないなら、聖体拝領は大罪である”と明確です。
神は私たちに、御聖体とぶどう酒という目に見えるかたちで、真の肉体となった神の存在を私たちに残してくださいました。ランチャーノの奇跡は、聖体の真実を私たちに示しています。このご聖体の奇跡について考え、できるだけ神を中心とした生活を送れるようにしたいと思います。
Image: Reliquary displaying the relics of the Eucharistic miracle of Lanciano (Wikipedia)
Sources:
The Eucharistic Miracle of Lanciano by Fr. Nicola NasutiOFM Conv.
Church of San Francesco (Eucharistic Miracle) – Lanciano (wikimapia.org)