ベネディクト16世の葬儀:霧に包まれたバチカン

不思議な霧

ヤキマ・ヘラルド・リパブリック紙 によると2023年1月5日、ベネディクト16世の葬儀の前、そして葬儀の間、、ローマではめずらしい霧がサンピエトロ大聖堂を覆いました。(動画:Guardianより)

Time-lapse shows thousands of people gathering to attend funeral of Pope Benedict XVI
Guardian News




国際児童擁護者の弁護士エリザベス・ヨア氏は、ライフサイトによるインタビューで次のように述べています。

彼の葬儀の日、サンピエトロ広場に空から非常に珍しい霧がおりてきました。実は、イタリア人たちは、今でもそのことについて話している、と私は聞いています。これは、私たち全てが注意を払うようにとのしるしです。教皇ベネディクトは、「キリスト幼児時代の物語」(Jesus of Nazareth: The Infancy Narratives)に関する著書の中で、聖なる雲、霧、シェキーナ(1)について話しています。それは神の存在のしるしであり、雲が臨在の幕屋の上に浮かんでおり、神が臨在していることを示すものです。

– エリザベス・ヨア氏

1.シェキーナ:SHEKINAH;「住まい」を意味するヘブライ語。詳細はリンクにあります。 Jewish Encyclopedia

神の怒り: 雷 / 神の臨在: 雲

この出来事を偶然の自然現象ととるか、それとも神の啓示と考えるのか、人それぞれだと思います。しかし、ただの偶然にしては出来すぎていることも事実なのではと言えます。例えば2013年2月11日、ベネディクト16世が辞任したその日に、聖ペトロ大聖堂のドームに2回、雷が落ちたことは有名です。雷はたびたび聖書のなかで「神の怒り」として描写されています。

私は、ヨハネ12:29のなかで神の声が聞こえても「雷だ」という不信心者の人々の話も思い出されました。

 29 そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。-ヨハネ 12:29

もし私が、その場にいて、神の声を聞いたとしても、恐らく何が起こったか信じられず「雷」だと言ったと思います。

30 イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。 31今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。-ヨハネ 12:30-31

31節では、神の敵であるものにとっては、神の怒りがくだる、ということを述べています。神の敵、この世の支配者にとっては「雷」は恐ろしいしるしです。もしかしたら辞任の日の雷は、バチカンの腐敗を謀る者たちの心に恐怖を与えるための、神からの警告だったのかもしれません。

出エジプト40:34で述べられている「雲」の存在は、「霧」ともとらえることはできます。その当時の人々がその雲について、どのように感じていたか、聖書では述べていないため知ることはできませんが、人々はその幕屋の上の雲に神の存在を感じていたと、思われます。

神からの警告

聖書には、最後の審判の日や時刻は、神の子イエスでさえも知ることができないとあります。しかし、もし雷や霧が神の裁きが近づいていることを示すものであるとしたら、私たちは直ちに自分を振り返り、思い、行いをたださなければ大変なことになります。

もし霧が神の存在であるとすると、単なる自然現象として片付けるべきではないはずです。その現象に注意を払うべきである、というエリザベス・ヨア氏の意見に賛成です。「雷だ」と言い、神の声を信じなかった人々はどうなったのでしょうか。私たちは、もっと神のメッセージに心をかたむけることが大切なのでは、と思います。

あなたがたは世の光: Lux Mundi

聖書には「光」という言葉がたびたび登場しますが、新約聖書のマタイでは、私たちがその「光」であるという言葉がでてきます。その「光」の部分に、マザーTが小さなメモをつけていましたのでご紹介させていただきます。

14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。– マタイによる福音書5章14-16節。

世の光であれ、とは述べず直説法:マザーTのメモ

14節、マザーTは、直説法であることを指摘しています。直説法は現実について語ります。”世の光となれ “と言っているのではなく、私たちキリスト教徒は、すでに世の光であると言っているのです。”あなたがたは世の光 “とは、洗礼によってキリスト教徒が光となることを意味します。

15節、ヘイドック聖書注釈によれば、世の光、山の上の町、灯火は、カトリック教会を指しており、それは山であるキリストの上に建てられているので、隠すことはできないのである、と解釈されています。

あなたがたの光が人々の前に輝きなさい。人々があなたがたの立派な行いを見てあなたがたの天の父をあがめるために。:マザーTのメモ

16節のマザーTの訳注は、私たちはすでに光であり、光を持っている、私たちの仕事はただそれを輝かせることである、という点を強調しています。

確かに、光であれば隠れることはできません。「世の光である」、私はこの事実をたびたび忘れていたことに気が付きました。神から与えられた 「光 」としての役割を無事に終えたとき、私たちの魂が帰る場所は、はるかな高みにある光の神のところです。それは簡単なことではありません。思い出させてくれた彼女のメモに感謝します。

ラテン語:Lux(光) Mundi (世界/世)

神に栄光

画像 : Ancient Middle Eastern Oil Lamp Made in Clay on Wood Table Stock Photo – Image of empty, desert: 43794038 (dreamstime.com)

ベネディクト16世の葬儀:ベネディクト16世を守った衛兵たち

バシリカの大司祭であるガンベッティは、聖具室に戻った後すぐに再び現れ、すべての照明を消し、バシリカを空にして翌朝まで閉鎖するよう命じた。 彼は文字通り、教皇ベネディクトがバシリカに安置されている3日間の夜間、教皇ベネディクトの遺体を、一人で、暗闇で、無人で、棺の上にさらすことを望んだのである。 (Barnhardtより抜粋、要約)

スイス衛兵たちは、ガンベッティ大司祭から、今は非番で、朝になったらまた出勤しなければならないことを告げられても、立ち去ろうとしませんでした。彼らは、ベネディクト16世の遺体と一晩中一緒にいることを志願したのです。

彼らは兵士です。兵士は上からの命令を必ず実行するようにトレーニングを受けていることは周知の事実です。しかし、あまりにもひどいベネディクト16世の遺体に対する冒涜に、彼らは従うことができませんでした。

彼らの行動は、主に結ばれた者、聖職者について聖パウロが信徒へ願ったことを思い起こさせます。

兄弟たち、あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主に結ばれた者として導き戒めている人々を重んじ、またそのように働いてくれるのですから、愛をもって心から尊敬しなさい。(テサロニケの信徒への手紙 1 5:12)

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ベネディクト16世の葬儀:鐘も鳴らさず、半旗もされず

サンタマルタでは、ベネディクト16世の訃報が流れる以前から通常通りの業務をする、と宣言していたそうである。いいかえると「何もおきていない」からである。そしてバチカン市国では鐘もならされず、半旗にもされなかった。 (Rorate Caeli より要約。https://rorate-caeli.blogspot.com/2023/01/the-funeral-rites-of-benedict-xvi-and.html

元教皇への敬意などまるでない行為だといえます。

1月5日のベネディクト16世のお葬式が行われました。葬儀参列に関し、イタリアとドイツ以外の大臣は、参列しなくてよいという命令が出されたそうです。

しかし、多くの国が

「じゃあ大臣ではなく私個人として出席します」

とお葬式に参列したそうです。

このような命令がだされたことは、私の知識の範囲では聞いたこともありませんでした。お葬式、しかも教皇でもあった方が亡くなったということは、多くの人が集まることを前提としています。コロナが怖い等があった、と仮定したとしてもおかしな話です。何か別の納得のゆく正当な理由でもあるのでしょうか。

ベネディクト16世のお葬式自体も非常に質素な感じでした。

バチカンの発表によると「ご本人のご希望」だったそうです。彼らが真実を述べているのかは神のみぞ知る、ということでしょう。

またミサのその短さにも驚きました。

まず現代ミサは、4種類のパターンから司祭が自由に選択できます。4種類の中で最も長いミサは、中世の伝統的なミサのスタイルに近い、一番格式の高いミサとなります。ベネディクト16世のミサは、四種類のミサのなかで二番目に短いミサ、中クラスのミサとなりました。疑問の余地なく、元教皇ベネディクト16世ですから、最もフォーマルなミサになると期待していたのですが。期待を裏切り、二番目に短いミサでした。一番短いミサのパターンは、しばしば毎週行われる日曜ミサで使用されますので、さすがにそれはできなかったようです。

なぜそれほどミサの長さが気になったのか。

ミサは神への祈りと奉納だからです。またミサはカトリック信徒の信仰生活の中心でもあり、最も大切な要素の一つです。そのように大切なミサが短かったのです。あの短いミサが伝えるのは、ベネディクト16世のための祈りを少しでも早く終わらせよう、できるだけ通常の「奉納」で終わりにしよう、そのようなニュアンスだったように感じさせられるからです。

ベネディクト16世の葬儀:喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある

ベネディクト16世の葬儀のビデオを見ていて、ベネディクト16世に対するひどい扱いに気が付きました。

Traslación del cuerpo de Benedicto XVI a la Basílica de San Pedro 2-1-2023
En ti confío

まず彼の遺体がセント・ピーター・バジリカ教会に移動するときの状況です。彼の遺体がのせられたのは、グレーのビジネスで使用するようなバンです。そしてそのバンの後に、ほんのわずかな人達の葬列が続いています。

遺体を運ぶ車のあとに葬列が続くのは、イタリアではごく当たり前の習慣であり、教皇であったベネディクト16世には長い葬列が続くはずでした。おなさけで葬列をつけたような事態になったのは、バチカンが、長い葬列を認めなかったためです。多くの司教たちが葬列に加わりたかったのですが、拒否され、参列できなかったのです。

人々は、「こんなことは、イタリアで一番小さな村の男にさえされない 」と言っていたそうです。 (Rorate Caeli より要約)

到着した教会にも寂しい葬列以外映っておらず、ビデオだけみると孤独な人生を送った人の葬列のようです。事実は違います。ビデオには映っていませんでしたが、セント・ピーター・バジリカ教会の外にはたくさんの人が、彼の遺体が到着するのを待っていた、とのことです。

聖職者であり教皇であったベネディクト16世への仕打ち、死者への不敬は、許されてはいけないことです。このような仕打ちが行われたということは、ベネディクト16世がまちがいなく狼と戦っていたことの証明だといえるのではないでしょうか。

聖書では、以下のように述べられています。

私の為にののしられ、迫害され、見に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者も、同じように迫害されたのである。 (マタイ5:11,12)

伝統的ラテン語ミサに参加:ラテン語での「あけましておめでとうございます!」は?

カトリックの新年のミサの中では「あけましておめでとうございます」をいうことはありません。そんなこともあり、ラテン語ではなんというのか気になり、言語おたくのジェローム君に質問。とてもマニアな話をしてくれたのですが、長くなりそうでしたので、簡単な2つの言い方のみ紹介します。

ラテン語:Felix annus novus!/Felices Kalendae Ianuariae

なるほど…ラテン語のルーツをもつスペイン語を少し知っているお蔭で、意味が理解しやすいです。

去年の9月まで、私はラテン語ミサに毎週参加していました。しかし9月8日より伝統的ラテン語ミサが、フランシス教皇の命により、多くの場所で自由におこなわれなくなったこともあり、今年は少し家から離れた教会でラテン語ミサに参加させていただきました。

ラテン語ミサをしていた離れた場所の教会で、私たちの本来の教会を去ったとても熱心だった女性に会いました。彼女のような人が私たちの教区からいなくなっていくことは、本当に悲しいことです。もし、ベネディクト16世がくれたような、自由が、今もあれば、このような分裂は起きなかったのでは、と思わずにはいられません。

ラテン語ミサをするために許可を必要とするようになり、教会内での分裂が静かに進行し続けているように見えます。

2023年がめぐみにあふれた年となりますように。

ベネディクト16世帰天: 「私のために祈ってください。わたしが 狼を恐れて逃げないように」

” Pray for me, that I may not flee for fear of the wolves.” (1)

(ベネディクト16世が教皇として、はじめてしたスピーチの抜粋)

イタリア、ローマ時間の12月31日、午前9:34 ベネディクト16世が、95歳で死去されました。彼は1927年4月16日の聖土曜日に誕生、その後、復活祭のために用意された新しい聖水(2)で洗礼をさずけられた教皇でした。

一人一人に、神は特別なめぐみをあたえています。ベネディクト16世には神様から教皇になるための特別なめぐみが、生まれた日、そして洗礼の聖水にシンボライズされていたようです。

神を恐れる教皇であったことは、カトリック教義を忠実に守りつづけた、さまざまな彼の言動から明らかでした。私は、彼の最大の遺産は、次に述べる3項目ではないかと考えています。

1. 教会で行われた性的虐待の責任者を暴露し、処罰した。

2. 第二バチカン公会議以降、伝統的なラテン語ミサが禁止されたという印象を多くの人が持っているにもかかわらず、そのような禁止はなかったこと、司祭は自由にラテン語ミサを行うことができることを明らかにした。

3. 伝統的な英国国教会の諸派を、ペトロの座(正当な教会:ローマ教皇の権威を認める教会)との完全な交わりに復帰させた。

そしてバチカンの闇の部分である、バチカン銀行の汚職に関する調査を命令。バチカンATMが突然すべて停止、教皇を辞任しました。

辞任したベネディクト16世は、その後も教皇のみが、着用することが許されている白いヴェスメントを、常に着用していました。また教皇を辞任した時点で、通常、バチカン内を去ることが一般的ですが、彼はバチカンを去ることはありませんでした。一体彼の辞任劇に何が起こったのでしょうか。ベネディクト16世が沈黙をつらぬいていたため知ることはできません。

私はベネディクト16世の勇気と信仰にあらためて敬意を表します。なぜなら神が彼をおかれた場所から去ることを選ばず、羊を守る羊飼いとして、狼から逃げず、重荷を背負いつづけたていたように見えるからです。

(復活祭:一度この世の命を失ったキリストが死から復活し、死からすべての人々を救ったことを祝うキリスト教の祭日。イースター)

  1. Source: https://www.vatican.va/content/benedict-xvi/en/homilies/2005/documents/hf_ben-xvi_hom_20050424_inizio-pontificato.html (retrieved January 2, 2023).
  2. Source: Salt of the Earth (CD). Lighthouse Media, 2011
  3. . ATM突然停止基本的な情報リンク: https://www.nytimes.com/2013/01/05/world/europe/debit-and-credit-card-purchases-shut-down-at-vatican.html

詳細については、こちらをご覧ください。https://www.fromrome.info/2020/07/09/the-st-gallen-connection-to-those-snarky-vatican-atms/#:~:text=One%20of%20the%20intriguing%20historical%20events%associated%20with,4%2C%202013.%20It%20is%20an%20incontrovertible%20historical%20event.

このブログのきっかけとなったマザーTについて

私の家庭は、ほとんどの日本人家庭のようにキリスト教ではありませんでした。そのキリスト教について何もしらない私に、色々と指導をしてくれたのは、聖書クラスをする学校のもと先生でした。

はじめてお会いしたときに、小さくてお上品なおばあちゃん、という印象を抱いたのを覚えています。ある意味におき、彼女は印象通りの方だったといえるのですが…かわいらしいおばあちゃんの印象を覆すような、厳しいこともズバッとおっしゃります。その後、彼女はシスターが本来のお仕事で修道院長もしていた、と知りました。なるほど、それで謎が解けました。

私に対する厳しさは修道院長が、見習いを育てるような教育だったのだ、と。
「あの~先生、世俗にまみれた私に対し、修道院長になっているようですが…」と冗談を言って、二人で笑いあっていた頃がなつかしいです。

彼女が亡くなり、形見分けとし、私は彼女の聖書と聖書クラスのメモをいただきました。これから少しずつ「マザーTの聖書クラスのメモ」とし、ブログにのせていきたいと思います。

Xmasの意味とは?

By Jerome Wildeberg (ジェローム・ウィルデバーグ著)

皆さん、こんにちは。

この時期、皆さんは「クリスマスにキリストを」という看板やバンパーステッカー、車のマグネットを目にしたことがあるのではないでしょうか。

また、カトリック教徒であれば、「クリスマスにミサを行う 」ことの重要性を説いた人がいるかもしれません。

どちらもとても良い考えだと思います。

しかし、私は、このクリスマスのもう一つの側面を、おそらく皆さんが聞いたことのないようなアドバイスによって、皆さんにお伝えしたいと思います。XmasにはXをつけましょう。

Xmasと書くと、キリストの名前が含まれなくなるから好きではないという人がいます。しかし、XmasのXは実はローマ字のExではなく、ギリシャ文字のChiです。これは古代の「Chi-Rho」モノグラムの名残で、「Christ」という単語の最初の2文字をギリシャ語で省略したものです。

つまりXmas にもキリストは存在するのですが、”X “という神秘的なシンボルの下に隠されているのです。

そして、主の誕生を祝うこの祝日に、これ以上ふさわしいものがあるでしょうか。

最初のクリスマスに、神様は人間の肉体の中に、それも赤ん坊の肉の中に、ご自分を隠しておられたのです。赤ん坊は弱く、保護と世話を必要とする人であり、他人を守ったり、他人の世話をすることがでません。赤ん坊は危険から救われる必要がありますが、他人を救うことはできません。

もしあなたが危険な状況にいて、救助者(救世主)を期待するように言われたら、おそらくそのような無力そうな救助者を期待しないでしょう。

しかし、神がおられるときは、予期せぬことを期待したほうがよいのです。

「まことに、汝は自らを隠す神なり。
イスラエルの神、救い主よ」(イザヤ45:15)

だから、「X」という記号がふさわしいのです。X “の意味を考えてみましょう。算数では、”x “は “掛け算 “を意味します。代数学では、”x “は未知の量を表します。そして一般的に、”X “は神秘的で未知のもの、特にそれが巨大な力を持つものを表します。例えば、X線、Xファイル、Xファクター、X-Men、Xboxなど、これらすべての場合において、「X」は神秘的で強力な未知のものの印であるといえます。

神はXファクターであり、究極のパワーであり、究極のミステリーなのです。そして、最も小さく、最も期待されないような場所に自らを隠し、(例えば)赤ん坊になり、一片のパンになります。しかし、その小さな始まりは、やがて算数の「x」のように、その影響力は倍加し始め、止められない力となるのです。私たちの主が生まれたとき、ユダヤはローマ帝国、ヘロデ人、大祭司たちによって支配されていました。しかし、あの小さな赤ん坊が始めた教会は、2千年以上経った今でもここにあり、力強く続いています。

神はXファクターであり、ひとたび動き出せば、何をするかわからないのです。ナルニア国でビーバーさんが言ったように、「彼は飼いならされたライオンではない。彼は安全ではないが、良い人だ 」ということなのです。

代数学で、”x “の値を少し変えるだけで、他のすべての変数の値が根本的に変わるように、神の小さな一片が人の全人生を根本的に変えることができるのです。そして、一つの人生が世界を変えることができるのです。

「また神は地位のあるものを無力な者とするため、世の無に等しいもの、身分の卑しいものやみ下されている者を選ばれたのです。それはだれ一人神の前で誇ることがないようにするためです」(Ⅰコリント1:28)

聖書にあるように、神は、この世で低く、軽んじられているもの、すなわち、ないものを選んで、あるものを無にしようとされた、のです。

迫害者サウロは、「X」(使徒9:5)と掛け合わされ、元迫害者である使徒パウロになりました。パウロの言葉によって、アテネの人々の「X」、すなわち未知の神(使徒17:23)は、多数の既知の神々を崩壊させたのです。その不思議な力は、今日も働いているのです。

この世の「宿屋」(世俗的な目的のためのグループ、組織)には、神の入る余地はありません。しかし、もしあなたが心の中に飼い葉桶を作るなら、そこで神がなさるかもしれないことに備えることができのではないでしょうか。

神のざわめきは、私たちに働きかけているのです。そのような神の働きがあるとき、予期せぬ出来事が起こることを期待しましょう。

メリー・クリスマス。

※作者に許可をいただき、日本語で意味を理解しやすくするため意訳になっております。