箴言集:ゲマトリア数秘術とソロモン王

知恵の王ソロモンと箴言集

箴言集は旧約聖書の知恵の書のひとつです。伝説によると、聖書の箴言集、コヘレト、雅歌は、ソロモン王(BC. 1011-931)はより執筆されたといわれています。ソロモン王(BC. 1011-931)は、エルサレムに、ユダヤ教の神殿をはじめて建てた王としても、歴史に名を残しています。

知恵の王とも呼ばれるソロモン王の執筆した箴言集は、ヘブライ語で書かれています。31章、約800の格言からなる書です。日付が記されていないため、どの格言が先に書かれていたのか不明ですが、通常、新しい章が先に書かれていたと考えられています。

アルファベット数375をもつソロモン王の名

聖書には「ゲマトリア数秘術」と呼ばれるヘブライ語を数字に置き換える方法があります。マザーTは、ソロモン王の箴言集にあるヘブライ語の数字についてメモをしています。

ヘブライ語のアルファベットの子音字には、その順番に応じた数値がある。ソロモンの子音の合計375。10章以下の{ソロモンの格言集}に格言の数は375。ーマザーT

ヘブライ語は母音がなく子音で構成される言語です。そして、それぞれのアルファベットに対応した数字があります。これはつまり、ヘブライ語の単語の中にあるアルファベットを一つずつ足すと、その単語の数があるということです。ヘブライ語で「ソロモン」は「שְל」(発音は「シャロモ」)です。この名前の数値は375となります。マザーTのメモは、箴言の数と 「ソロモン 」という名前の数値の一致を指摘している、ということがわかります。

トーラとソロモン王 

このソロモン王の数と箴言集の数の合計について、J君は一つの仮説を立てています。

箴言集を象徴する数字(380)トーラ(5)+ソロモン王(375)

ヘブライ語で「箴言」を表す単語は ” מִשְෆי ” (発音は「ミシュレ」)です。この単語の数値は380です。トーラーと呼ばれるモーセの律法は5冊の本から成っています。そのため5という数字はトーラーを象徴しています。そのトーラーを象徴する数字(5)にソロモンを象徴する数字(375)を足すと、380となり、箴言集を象徴する数字となります。つまり ソロモン(375)は、律法(5)を学ぶことによって、箴言(380)を書く気になった、とも解釈できるのかもしれません。-J君

このような言葉や数字を解釈するのは、ユダヤ教のラビが一般的ですが、キリスト教の教父にもこのような分析をした例はあります。例えば、聖ヨハネ・クリソストモスの聖書注解です。私も好奇心から、自分の名前をヘブライ文字で書き、その意味を調べるために聖書のゲマトリアを使ってみました(ヘブライ語の単語を数字の値で表したウェブサイト参考)。ラビが本当にこのような方法でゲマトリアを使うのかどうかは分かりませんが、非常に興味深いものでした。

(かみ)摂理(せつり)のなせる(わざ)

ユダヤ人によると「すべては神の手によるものであり、偶然はない」と言われています。マザーTの「10章以降、箴言集にはちょうど375の格言がある」についての説明は、残されてませんでした。しかし、次の文章は残されていました。

人間の目には偶然でも、神の目には必然である -マザーT

すべての数字をパズルのように組合わせた、古代ユダヤ人の知恵には脱帽しました。一方、私も、様々な聖書の不思議な偶然の一致は、神の手なしにはあり得なかった、と思います。

神に栄光

あなたがたは世の光: Lux Mundi

聖書には「光」という言葉がたびたび登場しますが、新約聖書のマタイでは、私たちがその「光」であるという言葉がでてきます。その「光」の部分に、マザーTが小さなメモをつけていましたのでご紹介させていただきます。

14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。– マタイによる福音書5章14-16節。

世の光であれ、とは述べず直説法:マザーTのメモ

14節、マザーTは、直説法であることを指摘しています。直説法は現実について語ります。”世の光となれ “と言っているのではなく、私たちキリスト教徒は、すでに世の光であると言っているのです。”あなたがたは世の光 “とは、洗礼によってキリスト教徒が光となることを意味します。

15節、ヘイドック聖書注釈によれば、世の光、山の上の町、灯火は、カトリック教会を指しており、それは山であるキリストの上に建てられているので、隠すことはできないのである、と解釈されています。

あなたがたの光が人々の前に輝きなさい。人々があなたがたの立派な行いを見てあなたがたの天の父をあがめるために。:マザーTのメモ

16節のマザーTの訳注は、私たちはすでに光であり、光を持っている、私たちの仕事はただそれを輝かせることである、という点を強調しています。

確かに、光であれば隠れることはできません。「世の光である」、私はこの事実をたびたび忘れていたことに気が付きました。神から与えられた 「光 」としての役割を無事に終えたとき、私たちの魂が帰る場所は、はるかな高みにある光の神のところです。それは簡単なことではありません。思い出させてくれた彼女のメモに感謝します。

ラテン語:Lux(光) Mundi (世界/世)

神に栄光

画像 : Ancient Middle Eastern Oil Lamp Made in Clay on Wood Table Stock Photo – Image of empty, desert: 43794038 (dreamstime.com)

このブログのきっかけとなったマザーTについて

私の家庭は、ほとんどの日本人家庭のようにキリスト教ではありませんでした。そのキリスト教について何もしらない私に、色々と指導をしてくれたのは、聖書クラスをする学校のもと先生でした。

はじめてお会いしたときに、小さくてお上品なおばあちゃん、という印象を抱いたのを覚えています。ある意味におき、彼女は印象通りの方だったといえるのですが…かわいらしいおばあちゃんの印象を覆すような、厳しいこともズバッとおっしゃります。その後、彼女はシスターが本来のお仕事で修道院長もしていた、と知りました。なるほど、それで謎が解けました。

私に対する厳しさは修道院長が、見習いを育てるような教育だったのだ、と。
「あの~先生、世俗にまみれた私に対し、修道院長になっているようですが…」と冗談を言って、二人で笑いあっていた頃がなつかしいです。

彼女が亡くなり、形見分けとし、私は彼女の聖書と聖書クラスのメモをいただきました。これから少しずつ「マザーTの聖書クラスのメモ」とし、ブログにのせていきたいと思います。