ランチャーノの奇跡

ご聖体の祝日おめでとうございます。

ご聖体はカトリック教徒の信仰の中心です。ミサの中で聖体パンと葡萄酒は、司祭の奉献の言葉により、キリスト(子なる神)の体と血に変容すると信じられています。ミサで司祭が用いる奉献の言葉は、イエスご自身の言葉です。それは、神のみ言葉であり、神のみ言葉には力があるのです。 この神秘的な変化は実体変化として知られています。(実体変化についての説明はこちらになります)

750年頃、イタリアのランチャーノ市(当時はアンクサヌムとして知られていた)で、ご聖体の偉大な奇跡が起こりました。「ランチャーノの奇跡」は、カトリック教会によって正式に認定された、最も古く最大のご聖体の奇跡です。

Explore with the Miracle Hunter: Lanciano EWTN

最初で最大のご聖体の奇跡

奇跡は、あるバジル修道士がミサを捧げている最中に起こりました。修道士がご聖体のパンと葡萄酒を奉献した後、それらが修道士の目の前で主の肉体と血に変容したのです。修道士は感動のあまり涙を流しました。そして、その場に居合わせて奇跡を目撃した人々は、神に罪を告白し、神の赦しを乞うたと記録されています。

この奇跡のニュースは、奇跡を目撃した人々によって瞬く間に広まりました。その後、教会による調査がされ、この出来事は最初の聖体の奇跡として認められました。変容したパンと葡萄酒は特別な象牙の箱に保管されています。

残念なことに、この奇跡に関する目撃者の証言の原本は、この奇跡に関する最初の調査の詳細とともに、16世紀以前のある時期に失われています。

ミサは何語で行われたのか。

皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだである。

マタイ26:26

ランチャーノの奇跡のミサは、ギリシャ語で行われた東方教会のミサだったでしょうか。それともラテン語で行われた西方教会のミサだったのでしょうか。

東西教会の分裂以前(8世紀)教会は一つでした。異なる言語でも、どのような儀式でも、世界中の司教は互いに、そして教皇と交わりを持っていました。ランチャーノの奇跡が起こったミサは、前述したようにバジル修道士によって行われました。

バジル修道士はローマ帝国の東部だったギリシャ語圏の出身です。東ローマ帝国のキリスト教徒は異なる言語を話すだけでなく、ミサを行う際にも異なる典礼(または「儀式」)を用いていました。

ラテン語(または「西洋」)礼典でミサを行う場合、司祭酵母のないパンを使わなければなりません。しかし、ビザンチン(東方)式では、酵母を入れたパンを使わなければなりません。しかし奇跡のパンは、西方教会で使用する種無し聖体パンの形をしています。その聖体パンの形から、ランチャーノの奇跡のミサはラテン語で行われたと言えます。

聖バジルの修道士たちはなぜローマにいたのか?

ローマ・カトリック教会には、ベネディクト会、フランシスコ会(フランシスコ会はいくつかの修道会に分かれている)、ドミニコ会、カルメル会など、多くの修道会があります。東方正教会では、聖バジル修道会のみが存在し、356年の創立以来、ほとんど変わっていません。

残念なことに、8世紀の東ローマ帝国には、イコンを作ったり崇めたりすることは罪であるとするイコノクラスト(聖像破壊)という異端を信じる東ローマ皇帝がいました。その結果、多くのギリシア語を話すキリスト教徒がイタリアに逃れました。そのなかには多くのバジリ修道士もいたのです。

ランチャーノの町と聖ロンギヌス

しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。(ヨハネ19:34)

Illustration from the Rabbula Gospels, AD 586

正確な時期は不明ですが、町の名前は “アンクサヌム “から “ランチャーノ”へと変わりました。”ランチャーノ”という名前の由来は定かではありません。一つの言い伝えでは、聖ロンギヌスがイエスの脇腹を刺した槍にちなみ、ラテン語で「槍」を意味する “ランチャー”から命名されたと言われています。

奇跡は、聖レゴンチィウス(聖ロンギヌス)と聖ドミチィアヌスに捧げられた小さな教会で起こりました。聖ロンギヌスと聖ドミティアヌスとは、どんな人物だったのでしょうか。

伝説では、ロンギヌスは主のおん脇を槍で刺した百人隊長でした。彼は、イエスの復活後にキリスト教徒となり、後に殉教したと伝えられています。ロンギヌスはアンクサヌム(ランチャーノと呼ばれる以前の名前)の町で生まれたとされていますので、彼の生誕地の教会が彼に捧げられたのは、ごく自然なことと言えます。

聖ドミチィアヌスは、異端と熱心に戦った6世紀の司祭です。異端の皇帝から、イタリアへ逃れたバジリ修道士の状況を知ると、聖ドミチィアヌスを守護聖人に選んだのも納得がいきます。

疑いを抱いていた修道士

AD700年頃、当時は聖レゴンチィウス教会と呼ばれていたこの教会に、バジル会の修道士がいた。

その修道士の一人が、聖別された聖体が本当に主の御体なのか、聖別されたぶどう酒が本当に主の御血なのかを疑っていた。

修道士はミサを始めた。奉献の言葉を唱えた後、彼は聖体が肉となり、ぶどう酒が血となるのを見た。

彼はそれをその場にいたすべての人に示し、皆に知らせた。

今日でも、肉は1つであり、血は5つの不均等な部分に分かれている。

それらは今日、ある聖フランシスコ教会で見ることができる。(碑文より)

礼拝堂の碑文には、ある修道士が聖体パンの中に主がおられると信じることができず苦悩していたところ、聖体パンと葡萄酒が聖変化されただけでなく、キリストの御体と御血が感覚的に知覚できるようになるという奇跡が起こったと記されています。

A Greek monk  praying in the monastery of St. George in Corinth, Greece Photo by Blue Sky

ウィリアム・サンダース司祭は古い写本に、この修道士が「この世の学問には精通していたが、神の学問には無知であった 」と説明しています。

この短い一節から、修道士は多くの勉強をしてきた学者タイプの人間だと想像できます。「神の学問に無知であった」とありますから、神学について、そして神が彼にどのように生きることを望んでおられるのかについて学ぶ必要があったということでしょう。

この無名の修道士は、疑った司祭としてだけではなく、疑いと闘った司祭として記憶されています。単に肩をすくめて、その疑いをを受け入れるのではなく、疑いをなくそうとした事実は、彼がどれほど真剣に信仰に取り組んでいたかを示しています。修道士は、使徒聖トマスのように、自分の疑いが正しいと固執せず、謙虚になり、ついに信じたのです。

もう一つの奇跡

奇跡が起こり、聖体パンは目に見える人間の肉となり、葡萄酒は大きさの異なる5つの血の塊となりました。キリストが磔にされた時に受けた傷は5つですが、葡萄酒はその同じ数血の塊になったのです。

1574年、さらなる奇跡が起こりました。その大きさの違う5つの血の塊の重さが、すべて同じ重さだったのです。それだけでなく、5つの血の塊を合わせた重さが、それぞれの一つずつの血の塊の重さと同じでした。

その後、血の塊の重さに起きた奇跡的な現象は、1637年、1770年、1886年に司教団が行った調査では再現されていません。1970年代の調査では、塊1つの重さは0.56オンス(約15.88グラム)と計測されました。

科学的に証明された奇跡

遺物は1970年から1973年にかけて世界保健機関(WHO)によって科学的に調査され、1981年には、より高度な技術を用いて再調査されました。

この研究に携わった研究分析チームには、人体解剖学と生理学を専門とする2人の医師、1人の教授、1人の医師が含まれていました。

研究者の一人は、解剖学、病理組織学、化学、臨床顕微鏡学の教授であり、アレッツォの病院の医師長であるオドアルド・リノーリ博士で、もう一人の研究者は、シエナ大学人体解剖学名誉教授のルッジェーロ・ベルテッリ博士です。

肉と血の塊の分析は科学的基準に従って行われ、その結果が公表されました。

血に変化した葡萄酒

ランチャーノ血の塊の血清蛋白質組成は、新鮮な人間の血液と同じであることが判明しました。これらの血の塊はAB型陰性で、塩化物、リン、マグネシウム、カリウム、ナトリウム、カルシウムなど、ミネラルが含まれていました。

ABマイナスの血液型を持つ人は人口の1%未満で、非常に珍しい血液型です。スペインのオビエドのスダリウム(手拭)、アルジャントゥイユの聖骸布、トリノのシュラウドも、すべてAB陰性です。

人間の肉へと変化した聖体パン

調査の結果、変質した聖体は間違いなく肉でした。特に、心筋(心臓の壁)と心内膜(すべての心腔を覆う繊維状の弾性組織の膜)から採取された心筋組織だったのです。これは訓練を受けた病理学者でなければ不可能なことでした。

注目すべきは、これらの血と肉が、12世紀を経ても新鮮で、自然の状態で保存されていたことです。検査した医師たちは、保存料の痕跡がなかったと証言しました。リノリ教授は再検査後、血液も肉も死体から採取されたようなものではなく、むしろ、新鮮な人間の肉と血の特徴を持っていること強調しています。

科学的知見に関する情報についてのリンク

https://infallible-catholic.blogspot.com/2012/04/eucharistic-miracle-of-lanciano-italy.htm

聖遺物の教会

Church of San Francesco  Photo by Sergio Feola

奇跡の聖遺物は、1175年にバジル修道士たちが去るまで、ランチャーノ教会に保管されていたと考えられています。しかし12世紀末、教会と修道院は放棄されましたが、教皇インノチェント3世の承認を得て、ベネディクト会に引き渡されます。その後、教区司教がフランシスコ会に譲渡しました。

教会を受け継いだフランシスコ会修道士たちは、何世紀にもわたる地震で教会堂が荒廃していることに気づきました。1258年、既存の教会堂の上に新しいフランシスコ会教会堂と修道院が完成しました。

聖遺物は、1636年にヴァルセッカ礼拝堂に移されるまで、その新しいフランシスコ教会の祭壇に保管され続けました。1902年、聖遺物は教会内の新しい祭壇に移され、それ以来そこに安置されています。

聖フランシスコ教会のウェブサイトへのリンク:Santuario del Miracolo Eucaristico – Dominus meus et Deus meus


私達の姿でもある疑い深いバジル修道士

ある司祭は、聖体についての説教で「聖体におけるイエス・キリストの存在を信じたくても疑うことは大罪ではないが、全面的に否定することは大罪である 」と疑うことの小さな罪と大罪についての違いを、わかりやすく説明してくれました。

ランチャーノ教会のガイドであったシルヴィオ・ディ・ジャンクローチェ司祭は、「ランチャーノの奇跡の契機となった疑い深いバジリア修道士は、私たち一人ひとりの姿を現している」と述べています。

ジョー・ブクラスのカトリック通信(2023年9月29日)によると、米国のカトリック信者の約3分の2は、イエスがご聖体の中におられると信じている、とのことです。聖体の復活が起こり始めています。

残りの3分の1のカトリック信者は、聖体におけるキリストの現存を信じていない、ということになります。教会のルールは ”もし信じないのであれば、聖体拝領をしてはならない、信じていないなら、聖体拝領は大罪である”と明確です。

神は私たちに、御聖体とぶどう酒という目に見えるかたちで、真の肉体となった神の存在を私たちに残してくださいました。ランチャーノの奇跡は、聖体の真実を私たちに示しています。このご聖体の奇跡について考え、できるだけ神を中心とした生活を送れるようにしたいと思います。

Image: Reliquary displaying the relics of the Eucharistic miracle of Lanciano (Wikipedia)

Sources:

The Eucharistic Miracle of Lanciano by Fr. Nicola NasutiOFM Conv.

Church of San Francesco (Eucharistic Miracle) – Lanciano (wikimapia.org)

ご復活祭おめでとうございます!

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25-26)

聖金曜日、教会は主イエス・キリストの受難と死を記念し、翌日の聖土曜日には、主が墓に葬られ、土曜日にイエスが墓に葬られ、葬られたイエスを思い出します。そして復活祭のはじまる真夜中に、主の復活を記念します。

私は、その復活徹夜祭が大好きで、今年も参加しました。
復活徹夜祭は、聖土曜日、復活祭前日の日没後に行われる儀式です。新しい火をおこし、キャンドルに火を灯す儀式も行われます。

暗闇の中、パスカキャンドルと呼ばれる復活祭キャンドル(救いの光の象徴)に、火が灯されるのを見て、クリスチャンでよかったと心から思いました。私も小さな信仰の火を、灯していけたらと思います。

キリストの復活の光が、世界中の人々に希望と救いをもたらし、神の御心がすべての人々のために行われることをお祈り申し上げます。

聖ジャンヌ・ダルク:火刑にされた乙女(4)

あなたは、わたしの守り手、助け手となり

わたしの体を滅びから、

中傷の罠から、

偽りを行う者の唇から救い出してくださった。

あなたは、わたしの反対者の目の前で

わたしの助け手となり、

あなたの豊かな慈しみと御名によって、

わたしを餌食にしようと仕掛けた罠から、

わたしの命をねらう者の手から、

わたしが耐えていた数多くの苦しみから、

救い出してくださった。

わたしを取り囲み、息を詰まらせるような炎から、

わたしがつけなかった火のただ中から、

(シラ書 51:2-4) 

ジャンヌ・ダルクの弾劾裁判記録は、中世社会が神秘と迷信に取り憑かれていたという一般的な印象を一掃します。

記録から浮かび上がってくるのは、ジャンヌに不利な証拠として使える場合を除いて、超自然的なことなどは無視していた聖職者の姿です。神の神秘を信じなかった彼らは、明らかに、死後の魂の行方など心配していなかったのです。

脅しに屈したジャンヌ

1431年5月24日、コーションは、音をあげないジャンヌに脅しをかけるため、彼女をサン・トゥアンの墓地(cemetery at St. Ouen)に連れて行くと火刑に処すと脅しました。さらに男の服装をやめ、「告白」に署名をすれば、教会の牢獄に移され、女性によって監視されると持ち掛けます。

ジャンヌは数か月にわたる牢獄での監禁生活、異端審問で疲労困憊していました。ついに火刑の恐怖は、弱った彼女を打ち負かしました。神に従うことを第一にしていたジャンヌが、神ではなく、人であるコーションの甘い言葉にだまされてしまいます。ジャンヌは、「告白」に署名をすることを同意してしまいます。文字を書くことができなかった彼女は、サインの代わりに小さな十字架のマークを印してしまいます。

コーションは彼女との約束など、守るつもりなどありませんでした。ジャンヌの破門は免除するとしながら、彼女の罪はあまりにもひどいため、元の牢獄に連れ戻し永久の禁固刑とすると言い渡したのです。

牢獄に送り込まれた乱暴者の看守たち

コーションが言い渡した無期限の禁固刑は、第13代ウォリック伯爵(Warwick)に怒りをいだかせました。彼女のせいで作戦に失敗した彼は、ジャンヌの処刑を願っていたからです。その様子をみていた判事の一人は、’ Do not fear, my lord,’ he said; ‘you will catch her yet.’「あなたはまだ彼女を捕まえられるでしょう」と心配に及ばないことを伝えています。(p235,)

彼らはジャンヌに対する残酷な計画を完璧にするため、裁判官達は、牢番に、貞節を脅かすような乱暴者な一団を監視役として送っていたのです。ジャンヌなら貞節を守る為、男装に戻ることを確信していたからです。

もし彼女がそうすれば、告発者たちは彼女を思い通りにすることができます。なぜなら、彼女が男装をやめると約束した後、再び男装をすることは、異端に逆戻りした事と同じだと主張できるからです。言うまでもないことですが、異端となった者は火あぶりの刑に処せられのです。

男装を強要されたジャンヌ

木曜日の夜に男装をやめたジャンヌは、日曜に、ふたたび男装にもどりました。ジャンヌが男装に戻るまでの数日間については、ほとんど知られていません。知られているのは、三位一体の日曜日の朝に目覚めたとき、彼女は兵士たちに、服を着る間、少しの間一人にしてほしいと頼んだこと、兵士の一人が、彼女から女性の服を剥ぎ取り、代わりに男性の服を与えたこと、裸になるのを避けるために、後者を着なければならなかったこと、などです。

牢番は、ジャンヌの懇願など聞き入れませんでした。裸にならないために服が必要だったジャンヌは、仕方なく正午に男物の服に着替えたのです。

声が告げた失望 

聖カタリナと聖マルガリタは、ジャンヌに彼らの失望を伝えました。ジャンヌは、そのメッセージについて「聖カタリナと聖マルガリタは、彼らは、私が自分の命を守るために自分の行いを放棄し、撤回したことで、私が大きな反逆に導かれ、そうすることで魂を失ったことに大きな悲しみを感じていることを私に告げました」と話しています。

ジャンヌの「魂を失う」ほどの大罪とは、神からの恩恵を否定した神への裏切りです。聖書のなかで、神を裏切った人物として、最も有名なのはイスカリオテのユダでしょう。主はイスカリオテのユダを指して、「あの人は生まれなかったほうがよかった」(マタイ26:24)と言われました。イエスは、ユダが悔い改めない限り、神を裏切った罪が、彼を永遠に、地獄の最も深い淵に落とすことを知っておられたからです。

神に従う勇気

Joan of Arc Imprisoned in Rouen, ca. 1819 by Pierre Henri Revoil (French, Lyon 1776–1842)

「人に信頼するよりも、主に帰依するほうがよい」(詩篇118:8)

ジャンヌが男装している、という情報を得たコーションは、獄中の彼女を訪ねました。

神に従う勇気を取り戻したジャンヌは、魂の死よりも肉体の死を自ら選びます。コーションの質問にジャンヌは、男性の傍らで男性の仕事(戦いの指揮)をするなら、男性の格好をしていたほうが都合がいいと説明しました。さらに、女性の恰好をすれば、ミサに出ることが許され、自分を縛る鎖から解放され、女性に監視されると約束されたが実際には、それらの約束はすべて嘘だったと付け加えました。

コーションがジャンヌの声について尋ねると、彼女は、聖人たちが、彼女が大罪を犯したことを悲しんでいると述べました。彼女は火刑を恐れて「告白」に署名したことを認め、それは大きな間違いであったこと、自分の声を否定するつもりはなかったこと、自分は神の使いであると今でも信じていることと述べました。最後に彼女は、これ以上囚人でいるくらいなら死を選ぶと答えたのです。

火刑に処すため世俗の手に渡される

ジャンヌは、再び異端として有罪となりました。裁判官の見解では、異端から脱却していたため、裁判官たちは、彼女を世俗の手に引き渡すことが適切であると判断しました。中世の教会では、教会が異端者に死刑を宣告したり、処刑したり、あるいは処刑を手助けしたりすることを禁じていたからです。1215年のエキュメニカル公会議(第4ラテラノ公会議)は、このことを次のように明言しています。

「聖職者は、流血を伴う判決を下したり、宣告したり、流血を伴う刑罰を執行したり、そのような刑罰が執行される場に立ち会ったりしてはならない」

したがって、異端裁判では、教会の目的は、単に神学的な専門知識を用いて、その人が無神論の異端者であるかそうでないかを判断することであったのです。異端であると判断された場合は、政府が法律に従って適切な処罰を下すことになります。当時、回心をせず、異端であり続けることは、恐ろしい犯罪であると一般に認められていました。その法的処罰は、多くの管轄区域において、火刑による死刑だったのです。

ジャンヌの異端裁判について、教皇ベネディクト16世は「実際に裁判全体を進めたのは、判事として裁判に参加した、有名なパリ大学の神学者の大集団」(2011年1月26日、第256回 聖ジャンヌ・ダルク一般謁見演説)であったと述べています。

ジャンヌの裁判官たちが、彼女は世俗の法制度に引き渡されるにふさわしい、再犯した無宗教の異端者であるという判決を下したとき、誰も異議を唱えませんでした。恐怖のために沈黙した者もいたに違いありませんが、当時の神学者や聖職者のほとんどは、コーションを全面的に支持していたようです。

火刑の朝

1430年5月30日(水)の早朝、二人の司祭がジャンヌのもとに送られ、火刑に処されるという知らせを告げました。知らせを受けたジャンヌは、泣きじゃくり、火刑より7回首をはねられたほうがましだと、自分の運命を嘆きました。

コーションが地下牢に入ってくると「あなたの決断で、世俗に引き渡されなければ火刑に処されなかったのです。あなたは私の死の責任を負うのです」と言いました。それに対しコーションは「あなたが約束を破ったので、あなたは死ぬことになったのです」と答えています。ジャンヌはコーションに、彼の責任を神のみ前で訴えると宣言しました。

火刑台へ

Being Led to her Death, ca 1867 by Isidore Patrois

「私は十字架を授からないのですか」と乙女は尋ねた。深く憐みを感じたイギリス兵が、2枚の木片を手に取り、麻ひもで粗末な十字架を作った。(火刑の日のジャンヌのエピソード)

白い長い衣をまとい、頭に帽子をかぶされたジャンヌは荷車に乗せられ、処刑される広場へと運ばれました。通りは大勢の人々で埋め尽くされ、ジャンヌの祈りの声は、人々の涙を誘いました。

広場の中央には杭が高く立てられ、どこからでも彼女が焼かれるのが見えるようにされていました。高い杭は、ジャンヌが火で焼かれる前に、煙で窒息死するのを防ぐためでもありました。ニコラ・ミディという説教者は、ジャンヌが異端に戻ったため、教会は彼女を破門し、教会から切り離し、世俗の手に委ねると宣言しました。

すべてを赦し、火刑台に上がったジャンヌ

「あなたがたが他人の罪をゆるすなら、あなたがたの天の父もあなたがたをゆるしてくださる」(マタイ6:14-15)

荷車が広場に着くと、ある修道士が、十字架を懇願していたジャンヌのために、サン・ソヴール教会から十字架を持ってきました。ジャンヌは敬虔な気持ちで十字架に接吻し、泣きながら火葬場に向かいました。

火刑台にあがったジャンヌは、群衆に向かい、王には何の罪もないことを伝えると、すべての人に彼女の魂のために祈ってくれるように願いました。彼女は全ての人を赦しました。そして、自分の声を決して疑わなかったこと、もし彼女が何か危害を与えていたのなら許してくれるよう頼みました。

ジャンヌの謙虚で痛恨に満ちた口調は、彼女を殺すため、全力を尽くしてきた多くの敵を含め、人々の涙を誘いました。コーションでさえ目に涙を浮かべたと言われています。

白い鳩と死

ジャンヌの帽子がとられ、代わりに彼女の剃られた頭に、裁判官の帽子のような形をした紙の帽子をかぶせられました。帽子には、「異端者、罪人、背教者、偶像崇拝者」など、彼女の罪状が書かれていました。

ジャンヌは杭にとりつけられた鎖でしばられました。火刑台の四隅にはなたれた火を見て、彼女はつきそっていたイザムベルド司祭(Isambard de la Pierre)にはなれるように言いました。イザムベルド司祭に「私が死ぬまで、いつも私の目の前に十字架を掲げてください」と願いました。


四方八方から立ち上る煙と炎に、彼女の姿はすぐに見えなくなりました。炎が最初に彼女に触れたとき、彼女の悲痛な叫び声は、人々を恐怖に陥れ、群衆は静まり返りました。神と聖人を呼ぶジャンヌの声が、炎の音に混じって聞こえてきます。


「イエス様!」 ジャンヌは大声で叫ぶと、頭がガクリと胸に落ちました。その瞬間、多くの人々が、白い鳩が飛び去るのを目撃したのです。人々はその白い鳩は、ジャンヌが、19年という短い生涯を終えて天に召されたしるしだと考えたのです。

ジャンヌは最後まで忍耐し、誰にも恨みを抱くことなく、罪を悔い改めた女性として亡くなりました。たとえ罪を犯したとしても、マタイによる福音書6章14節にあるように、神によって赦されたに違いありません。

冒涜と灰の中の心臓

処刑が終わると、処刑人は火刑台の薪を移動させ、衣服を焼かれたジャンヌの黒焦げの遺体を公衆の面前に晒しました。当時、捕縛されたのは、本物のジャンヌでないという噂があり、その噂が嘘であることを証明するためだったと言われています。

遺体は聖遺物として回収されないよう、さらに焼かれて灰にされました。その灰を集めているとき、処刑人は、彼女の心臓が燃え残っていることを発見したと伝えられています。後日、処刑人は、処刑人はドミニコ会の修道院を訪れ、ラドヴニュ司祭に、聖女を焼いた自分を天が許さないことを恐れている、と告白しています。

ジャンヌの灰は、キリスト教の埋葬もされず、ウィンチェスター枢機卿の命令により、セーヌ河(Seine)に流されました。この話は、ジャンヌと最後まで一緒にいた、修道士マシューによって記録されています。

ジャンヌを不正に弾劾した敵のその後

ジャンヌ殉教後、彼女の残酷な処刑に関わった人々はどうなったのでしょうか。

ニコラ・ミディ:ジャンヌが処刑される前、彼は、他の人々が罪に陥るのを防ぐために、腐った体であるジャンヌを、教会の体から取り除く必要があると説いた人でした。彼は、ジャンヌが処刑された後、ハンセン病にかかり死んでいます。

聖書では、ハンセン病は(場合によっては)ひどい罪から生じた「神からの呪い」とみなされていました。当然のことながら、ミディの死は、聖女を殺した報いだと、多くの人に噂されました。

ジョン・デスティヴェ: 他人の悪口を言う以外、口を開くことはないと言われた評判の悪い人物。ジャンヌの異端裁判の検事。獄中のジャンヌを訪ね、売春婦、ゴミなどと罵り続けていました。ジャンヌの死後間もなく、ぬかるんだ溝のなかで頭を打ち付け、死んでいるのが発見されました。

ニコラ・ロワズール:神学の教師で、コーションの親友。ジャンヌの拷問を最も強く望んだ一人でもありました。親切を装い、ジャンヌを陥れ、秘密を打ち明けさせようとしました。その上、ジャンヌに教会に従うよう促し、告白文書に十字架の印を署名させています。

ローマとアヴィニョンに二人の教皇がいた時代、彼はフランスの教皇を支持し、ローマと対立しました。そのため、ルーアン教会という収入源を奪われることとなります。その後、姉妹のもとに身を寄せていましたが、1442年以降に、ジャンヌの復権裁判以前に、バーゼルで急死しています。

宿敵ピエール・コーション

ピエール・コーション:異端裁判で最も重要な役割を果たし、ジャンヌの殉教後も約10年間生き続けました。ルーアンの大司教座を望んでいましたが、ジャンヌの処刑後も手に入れることはできず、代わりにリジューの司教となっています。

1431年、彼は、イギリスのヘンリー6世をフランス王として即位させましたが、イギリス勢力を巻き返すきっかけとはなりませんでした。

1436年4月13日、パリはフランス軍に占領されました。「七年以内にイギリスがオルレアンで得た以上のものを失う」という預言が現実となります。

1441年までに、イギリスは、それまでの100年間で、獲得した征服地のほとんどすべてを失っていました。

イギリス衰退に関するジャンヌの預言が成就したことについて、コーションは何を感じたのだでしょうか。イギリスから報酬を受けることを期待していたコーションにとり、大きな不幸であったことは間違いありません。

1442年12月18日(火)(ジュリアンカレンダー)、(グレゴリアン・カレンダーの12月27日(火))髭をそられている最中に71歳で急死しています。コーションの遺体は、サン=ピエール・ド・リジュー聖堂に埋葬されています。

コーションが亡くなった日の特別な夕の祈り

教会の公式の日々の祈りは、聖務日課(Divinum Officium)として知られ、時の典礼(Liturgia Horarum)、時課の典礼(Liturgia Horarum)などと呼ばれることもあります。聖務には、1日のさまざまな時間に唱える、さまざまな祈りが含まれています。

聖務日課には、毎日同じ内容のものもあれば、曜日や季節によって異なるものもあります。例えば、夕べの祈りである晩課では、毎日、マニフィカト(ルカによる福音書1章46~55節)が祈られます。しかし、マニフィカトの前後には、アンティフォンと呼ばれる、特別な短い文、またフレーズが唱えられます。マニフィカトのアンティフォン、(または夕のアンティフォン)は、聖人の日や季節によって異なります。

クリスマスまでの一週間の聖務日課では、夕のアンティフォンを、それぞれラテン語の “O”(誰かに呼びかけるときに使われる間投詞)で始まるよう特別に定めています。O “のアンティフォンは、旧約聖書のイメージを用いて、世の光であるキリストが、絶望の闇にとらわれた魂を救ってくださるよう懇願するものです。それぞれの “O “アンティフォンは、定められた日にのみ唱えられ、それ以外の期間には用いられません。

今日、”O “で始まるアンティフォンは、すべての場所で、同じ時期に行いますが、中世には多少の違いがありました。コーションが亡くなった1442年12月18日、フランスの夕の祈りで使われた、 “O “で始まるアンティフォンは次のようなものです。

O Clavis David 

Latin: 
OClavis David, et sceptrum domus Israel; 
qui aperis, et nemo claudit; 
claudis, et nemo aperit: 
veni, eteduc vinctum de domo carceris, 
sedentem in tenebris et umbra mortis. 
ダビデの鍵、イスラエル家の王笏よ
あなたが開けば、誰も閉ざさず。
あなたが閉じれば、誰も開けず。
いらしてください。囚人を獄屋から導きだしてください。
暗闇と死の陰に住む者たちを
O Clavis David (December 20) Stephan George

この祈りは一年に一度、この日のためだけに用いられます。そしてその祈りは、ジャンヌを不正に弾劾した、死に逝くコーションに、まさに必要な祈りだったのです。

悔い改めを説くイエス

「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」 (マルコ1:15)

マルコによる福音書1章15節で、イエスは悔い改めを説いています。マルコだけではなく、悔い改めは聖書全体を通して強調されています。コーションやジャンヌの敵は、彼女の死後、彼らの罪に対し、痛恨を感じ、悔い改めたことがあるのでしょうか。答えは神のみぞ知るのですが、死は突然彼らを襲い、十分な準備もなく死んでいったように思われます。

たとえば、コーションが亡くなった時間はわかりませんが、ひげを剃っている最中ということでしたので、少し暇になる、昼の祈りが終わった後から、夕方の祈りまでの時間帯に髭を剃りに行ったのかもしれない、と考えられます。さらに亡くなった時、教会内でないとすると、他の司祭も近くにいなかったはずです。言い換えれば、特別なアンティフォンのある、その日の夕の祈りはおろか、最後の秘跡を受けることもできなかったはずです。

死に逝く前の最後の告解と、聖体拝領無く死ぬことの恐ろしさは、彼のような聖職者が最も強調することの一つです。ジャンヌを異端とし、不正に告発し、火刑に処すことに、協力した人々の心境はいかばかりであったでしょう。

復権裁判

彼女の死を知らされた父は、ジャンヌの死の二年後、悲しみのなかでなくなりました。残された家族は、異端者として処刑されたジャンヌの汚名を何とか晴らしたいと願っていました。

一方フランスは、イングランドとの戦いに、勝利し続けていました。百年戦争の流れはフランスに傾いたのです。国王シャルル7世は、自分の王位確保に貢献し、今や伝説となった「オルレアンの乙女」が、公式記録によれば、異端者として断罪され、魔女の疑いをかけられていたことは、(控えめに言っても)居心地が悪かったに違いありません。シャルルは、自分のフランス王位継承権が異端や魔術とは無縁であり、むしろ奇跡を起こす聖人によって、神から認められたものであることを世に証明したかったと言えます。

1459年、ジャンヌの裁判の記録が保管されていたルーアンの町は、フランス軍によって再び占領されました。これで異端裁判以来、初めて、ジャンヌに対する裁判を、再検証することが可能になりました。

1450年2月15日、シャルル7世は、ジャンヌの汚名を晴らし、異端と魔術の汚名を返上するために「ジャンヌに関する真実を明らかにする」ことが王の意図であると宣言しました。

同時に、ジャンヌの母と兄弟たちは、異端審問の判決を訂正するよう教皇ニコライ5世に請願しました。けれども異端裁判は、1455年に、教皇カリクストゥス3世が即位するまで、再審理されることはありませんでした。

復権裁判での証言

カリクストゥス3世の即位とともに、ジャンヌの復権裁判のための調査が始まりました。

復権裁判では、ジャンヌの幼なじみ、兵士、司祭など多くの証人が呼ばれました。彼らは、ジャンヌの素朴な人柄、善良なカトリック信者であること、戦闘に関する驚くべき知識を証言しています。彼らはまた、ジャンヌが神の名において、イギリスからこの地を救ったと信じていました。

次の証人は、国王評議会のメンバーであるボーケールの元老院長で騎士のジョン・ダウロンです。彼は、ジャンヌが魔女とされたのは、イギリス側に都合の良い、政治的な理由によるものであることを明らかにしました。また、イギリス王に仕えていたノヨンの司教ジョン・ド・メイリーは、コーションが、イギリスから金銭を受け取っていたことを暴露しています。

裁判官の書記官であったウィリアム・マンションは、一般的な見解としてこう記録しています。 彼女が最後の試練に耐えた姿ほど、善良なクリスチャンの証はなかった、と。

ゲドン、アロン、カヴァル、マルセル、フェブリは、「彼女はカトリック教徒として死んだ 」と、幾人もの人々が、彼女の火刑の理由であった、異端を否定する証言をしたことが記録に残されています。

レイプ疑惑

ジャンヌの死後約25年後に始まった復権裁判では、ドミニコ会の修道士イザンバール・ド・ラ・ピエールが、男装に戻った日の、ジャンヌの様子を証言しました。彼は、コーションが、ジャンヌの地下牢に行ったとき、彼女は泣き、傷つき、憤慨しており、激しい闘争を受けた形跡があったことを証言しています。

さらに、ジャンヌの最後の告白を聞いた司祭マルタン・ラドヴニュの証言によれば、兵士だけでなく、あるイギリス貴族も彼女に対して恥ずべき行為を行ったということです。

イエスが説かれた性的罪の恐ろしさ

もし、あなたの右目が罪を犯す原因となるなら、それを取って捨てなさい。全身を地獄に投げ込まれるよりは、からだの一部分を失う方がましである。 もし、あなたの右手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。からだ全体が地獄に落ちるよりは、からだの一部分を失う方がよい。(マタイ5:29-48)

聖書では性的な罪を犯そうとする衝動があるならば、全身が地獄に投げ込まれるより、罪を犯そうとした体の一部を棄てたほうが良いとあります。

ジャンヌに対する恥ずべき行為は、三位一体の祝日に行われました。教会の暦では、当時も今も、三位一体の祝日はクリスマスと同じランクの主要な祝日です。そんな神聖な日に、彼らは神を冒涜するような行為をしたのです。彼らが死後の魂の行方など心配しない、信仰のない人間であったことは明らかです。

殉教者ではなく乙女として列聖

1456年6月、ジャンヌに対する「異端」の判決は最終的に無効とされました。彼女は敬虔なカトリック信者でしたが、不当な裁判のために処刑されたことが認められたのです。

殉教者とは、キリスト教の信仰のために命を落とした者を指します。ジャンヌの場合、彼女が処刑されたのは、キリスト教徒ということではなく、彼女の告発者が堕落しており、政治的な理由で殺そうと決心していたからです。そのためジャンヌは、殉教者としてではなく乙女として列聖されています。

聖ジャンヌの執り成しとして認められた四件の奇跡

殉教の場合、奇跡の証明を必要としませんが、乙女とされるジャンヌは、列聖されるために4つの奇跡を必要としました。

1904年1月6日、教皇ピオ10世は3つの奇跡を承認しました。それぞれの奇跡は、修道女がジジャンヌの執り成しを祈り、重い病気が癒されたというものです。四つ目の奇跡は、ジャンヌが生前、フランスをイギリス軍から救ったというものでした。1920年までに、さらに2つの奇跡が証言され、承認されました。

ジャンヌの死後、500年近く経った1920年5月16日、ベネディクト15世によって、彼女は聖ジャンヌ、オルレアンの乙女として列聖されました。それ以来、彼女は信者のために奇跡を起こし続けています。

ベネディクト16世のメッセージ

ジャンヌが、火刑に処せられてから約600年。彼女が生きた時代は、現代世界とは何の共通点もない過去の話のように思えますが、実はそうではありません。

ベネディクト16世はかつて、シエナの聖カタリナと聖ジャンヌを比較し、それぞれが二人の教皇の対立の時代に生き、教会と世界という非常に劇的な現実の中に生きながら、敬虔な神秘主義者であったと語りました(第256回一般謁見:聖ジャンヌについて演説、2011年1月26日)。

当時、誰も予想していなかったのは、2年後の2013年、ベネディクト16世がバチカンに住み続け、教皇の法衣を着続けながら退任するということでした。つまり、フランシスコ法王が選出されてから、ベネディクト16世が亡くなるまで、2人の法王がいるかのように見えたのです。しかも、今日の教会と世界は、ジャンヌの時代と同じように深刻な問題を抱えています。

ベネディクト16世は、聖ジャンヌのイエスへの愛と信頼、祈りにおける主との絶え間ない対話、そして教会への最後まで変わらぬ愛にふれ、より高い水準のキリスト教的生活を目指すよう信徒を励ましていました。聖ジャンヌのように、私たちもイエスの愛のうちに教会を深く愛するべきだと述べています。

聖ジャンヌに関する教皇のメッセージは、現代において、最も必要なことを教えてくれています。聖ジャンヌの愛と信仰は、過去も今も、フランスのみならず教会を守ってくれているに違いありません。故ベネディクト16世も、きっと聖ジャンヌや他の多くの聖人と同じように、教会と世界のために、天の御国から働いておられると信じています。

ベネディクト16世のメッセージを心に刻み、聖ジャンヌのような、神への愛と献身を少しでも持てるよう神に祈りたいと思います。

Fabré, Lucien. Joan of Arc. London: Odhams. 1955.

Gower, Ronald Sutherland, Lord. Joan of Arc. London: J.C. 1893.

Image: Scene From The Life Of Joan Of Arc , ca 1913 by Lionel Noel Royer

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聖母マリアの七つの悲しみの祝日

9月15日は御子イエスの生涯から、七つの悲しみを受けた、聖母マリアの悲しみの祝日です。この日は得に、聖母の悲しみに心を合わせ祈ります。

悲しみの聖母マリアへの献身の始まり

カトリックにはこの祝日が、教会で正式にはじまる以前より、「悲しみの聖母マリア」に祈る伝統と習慣がありました。

1221年ドイツにあるシェーナウ修道院で、はじめて悲しみのマリアの祭壇が設置されました。同じ頃、フランシスコ修道会により、悲しみのマリアへのグレゴリアン賛歌「スターバト・マーテル」が作曲されています。

Sequentia: Stabat Mater

セルヴィト修道会と悲しみの聖母

1233年頃のイタリアで、七人の貴族の息子がフィレンツェを去り、セナリオ山に向かいました。七人は、そこで隠遁生活をはじめます。彼らの霊性は、彼らのような生活を望む多くの人々をひきつけ、セルヴィト修道会が誕生します。正式には「聖母マリアのしもべ達」として知られる彼らの修道会は、特に聖母マリアへの悲しみに捧げられました。その聖母への献身を広めるために、彼らは「悲しみの聖母マリア」への祈りをはじめ、9月15日を悲しみの聖母の祝日としました。

七つの悲しみのチャップレット

セルヴィト修道会が広める信心の一つに「七つの悲しみのチャップレット」があります。このチャップレットを祈るには、次のような悔い改めの祈りから始めます。(英語版と同じ教会正式翻訳が見つからなかったため、一般的に使用されている悔い改めの祈りを引用)

悔い改めの祈り

神よ、わたしは罪を犯し、悪を行い、
あなたに背きました。
御子イエス・キリストの救いの恵みによって、
わたしの罪を取り去り、洗い清めてください。
救いの喜びを与え、あなたのいぶきを送って、
喜び仕える心を支えてください。
わたしはあなたの道を進みます。
アーメン。

そして、それぞれの悲しみに「主の祈り」を1回、「アヴェ・マリア」を七回唱えながら、7つの悲しみを黙想します。

  1. 老シメオンの預言によって悲しむ聖母
  2. 聖母はヨセフと幼子イエスとともにエジプトへ逃避する
  3. 幼子イエスをエルサレム神殿で見失う
  4. 十字架の道行きでのイエスとの出会い
  5. 聖母は十字架のもとにたたずむ
  6. イエスの亡骸を抱く聖母
  7. 聖母は墓に葬られたイエスを見る

最後に、聖母の涙を思い起こし、「アヴェ・マリア」の祈りを三回唱えます。

チャップレットの終わりに、次の祈りを加えるのが慣例となっています。(教会正式翻訳ではありません)

(先唱)最も悲しみ深き聖母よ、私たちのためにお祈りください。

(答唱)私たちが、キリストの約束にかなう者となりますように。

祈りましょう。

主イエス・キリストよ

今も、死の時も、あなたのあわれみの王座の前で

あなたの苦い受難の時に

悲しみの剣に刺し貫かれた

最も聖なる魂をもつ聖母マリアによる

私たちのための執り成しを願います。

世界の救い主である主

父と聖霊と共に終わりのない神であるイエス・キリストによって。

アーメン

聖母の七つの約束

「私は地上にいるすべての人を見回し、もし少しでも私を憐れみ、私の悲しみを瞑想する人がいるかどうか確かめますが、非常に少ないことがわかります。—聖母から聖ブリジットへのメッセ―ジ」

14世紀、スウェーデンの聖ブリジットに聖母が現れました。聖母は、多くの人が聖母の悲しみを気に留めていないことを嘆きました。聖母は、悲しみのチャプレットを毎日祈る者に、七つの恵みを授けることを約束されました。

  1. わたしは彼らの家族に平和をもたらします。
  2. 彼らは神の神秘に関して教え導かれます。
  3. わたしは彼らの苦しみを慰め、彼らの仕事に同行します。
  4. わが神、聖なる御子の愛すべき御心、あるいは彼らの魂の聖化に反しない限り、彼らが求めるだけのものを与えましょう。
  5. わたしは、地獄の敵との霊的な戦い、彼らの人生のあらゆる瞬間において彼らを守ります。
  6. わたしは彼らの死の瞬間に、目に見える形で彼らを助けるでしょう。彼らは母の顔を見るでしょう。
  7. 私はわが神、聖なる御子からこの恩寵を得ました。私の涙と悲しみへの、この献身を広める者は、この地上の生から、直接に永遠の幸福へと導かれるでしょう。彼らのすべての罪は赦され、御子は彼らの永遠の慰めと喜びとなるでしょうから。 (Source: https://ourladysorrows.com/seven-promises/)

18世紀以降の悲しみの聖母の祝日の変遷

1727年、教皇ベネディクト13世(在位1724-1730年)は、棕櫚の主日の前の金曜日に悲しみの聖母の祝日を制定し、教皇ベネディクト13世と教皇クレメンス12世(在位1730-1740年)はともに、信者に「七つの悲しみのチャップレット」を祈るよう勧めました。

1809年、教皇ピオ7世はナポレオンの捕虜となりました。1814年、自由を取り戻した教皇は、ローマに凱旋した後、9月15日を悲しみの聖母の第二の祝日とすることを宣言し、神に感謝を捧げました。9月15日は、9月14日の聖十字架昇架の祝日の翌日にあたり、この祝日にふさわしい日です。

こうして、毎年、春(聖金曜日)と秋(聖十字架の昇架)の二つの十字架の祝日がありました。それぞれの祝日には、主の十字架のもとに立つ聖母を表すために、悲しみの聖母の祝日がすぐ後に置かれていました。

1955年、教皇ピオ12世は、棕櫚の主日前の金曜日の祝日を廃止します。しかし、9月15日の祝日はそのままとされ、1969年に行われた大規模な典礼変更の後も、今日まで教会の暦に残されています。

悲しみの聖母とシドッティ司祭

1【指揮者によって。「はるかな沈黙の鳩」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。ダビデがガトでペリシテ人に捕えられたとき。】

2神よ、わたしを憐れんでください。

わたしは人に踏みにじられています。

戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ

3陥れようとする者が

絶えることなくわたしを踏みにじります。

高くいます方よ

多くの者がわたしに戦いを挑みます。

4恐れをいだくとき

わたしはあなたに依り頼みます。

詩篇56:1-4

日本には、イタリアの画家が描いたとされる有名な「悲しみの聖母」の絵があります。通称 「親指の聖母」と呼ばれるこの絵は、日本で殉教した最後のイタリア人司祭、ジョバンニ・バッティスタ・シドッティが所有していました。

日本へ渡るためにサムライに変装したシドッティ司祭

シドッティ司祭は1668年、シチリアのパレルモに生まれました。聖職者の道を歩むことを決意した彼は、パレルモのイエズス会大学とサピエンツァ大学で哲学と神学の学位を得ます。

シドッティ司祭は、日本に多くの殉教者がいることを知り、宣教師として日本に行くことを決意します。教皇クレメンス11世から日本行きの許可を得たシドッティ司祭は、まず日本人居留地のあるマニラに向かいました。そこで日本語と日本の習慣を学び、日本の通貨を調達し、サムライに変装して日本に向かいました。

1708年10月11日、シドッティ司祭は屋久島に上陸することに成功しました。彼の黒い木綿の袋の中には、ミサの道具、十字架、わずかな身の回りの品の他に、「親指の聖母」の絵が入っていました。しかし彼は、上陸後すぐに発見されてしまいます。

捕らえられたシドッティ司祭は、400里(約1,571キロメートル)の道のりを籠に乗せられて江戸まで運ばれました。この長旅の間、彼の足は衰え、やっと江戸に到着したときには、立つことすらできなかったと伝えられています。

シドッティ司祭と新井白石との交流

江戸に到着したシドッティ司祭は、新井白石(1657-1725: 旗本・政治家・朱子学者)の尋問を受けました。その際、新井はシドッティの描いた聖母像の模写をし、「目はくぼんで、鼻筋が高く、うるわしき面体也」と書き添えています。

新井白石は司祭と話すうち、その人柄と教養に感銘を受ました。そして拷問などせず、茗荷谷(現在の東京都文京区小日向)の切支丹屋敷に軟禁することとします。新井はこの時のシドッティとの交流を、『西洋紀聞』1713年頃(せいようきぶん)、『采覧異言』1713-1725年(さいらんいげん)に記しています。

殉教を選んだシドッティ司祭

当時としては破格の待遇を受けていたシドッティ司祭ですが、宣教活動は厳しく禁じられていました。けれども彼は密かに、彼の身の回りを世話していた老夫婦、長介とおはるに洗礼を授けていました。その後、奉行所で木の十字架をつけた二人が発見され、洗礼を受けたことが明るみに出てしまいます。シドッティ司祭は、二人と共に地下の座敷牢に移されてしまいます。

1714年10月21日、シドッティ司祭は47歳で殉教しました。老夫婦も司祭と共に殉教しました。シドッティ司祭は死の直前まで、長介とおはるを励まし続けたと言われています。シドッティ司祭と老夫婦の遺骨は、キリシタンの屋敷裏門脇に埋葬されました。

イタリアの科学、文学、芸術の普及に貢献したジョヴァンニ・トレッカーニ研究所の記述には、座敷牢との関連はなく、三人が小さな穴に入れられ、腐臭が充満する穴の中に閉じ込められた、とされています。また、シドッティ司祭の死亡日については複数の異なる情報があることが記述されています。

「親指の聖母」の愛称で親しまれる日本の国宝

シドッティ司祭が所有していた、青いベールをかぶり、頬に小さな涙を浮かべた聖母の絵は、現在、東京の国立博物館に所蔵されています。

聖母は青いヴェールの下に紫の衣をまとっています。カトリックでは、紫は聖金曜日と四旬節の断食期に用いられる典礼色です。(一方、黒は死者の日と葬儀に用いられる)この絵で聖母が紫の衣をまとっているのは、御子イエスの苦しみ、そして全人類の罪と苦しみを悲しんでいることを暗示しています。

「親指の聖母」を描いた画家はカルロ・ドルチなのか?

カルロ・ドルチ(1616-1686)は生前、敬虔なカトリック信者として知られ、その宗教的熱意で、主題を情感豊かに描きました。日本にある「親指の聖母」は、その作風や構図がドルチの既知の作品と似ていることから、ドルチの作品である可能性が高いと一般に考えられています。

イタリア、ボルゲーゼ・ギャラリーにある、同じ名で呼ばれる「親指の聖母」の絵は、シドッティの聖母と酷似しており、ドルチ作と考えられている理由を裏付けています。それだけでなく、どちらの絵にも、悲しみの聖母に対する深い信仰と献身が感情的に表れています。

ただし、かつてシドッティ司祭が所有していたこの絵が、実際にカルロ・ドルチの作品であるかどうかは確定されていません。彼の娘で、同じく彼の工房で働いていたアニューゼ・ドルチ(1635-1686)の可能性もあるからです。彼女の作品はカルロと作風が非常に似ており、彼女の作品を特定することは難しいとされています。

発見されたシドッティ司祭の遺骨

最後のバテレン シドッチ神父へのレクイエム – YouTube
Yakushima Heart TV

2014年7月24日、サレジオ会修道士レナート・タッシナーリ氏によりすでに特定されていた東京都文京区の切支丹屋敷屋敷跡で、綿密な調査が行われました。その結果、現場から三体の人骨が発見されました。ミトコンドリアDNA鑑定の結果、一体はイタリアのトスカーナ出身であることが判明します。さらに調査を進めたところ、この人物の身長は170cm以上であり、記録されているシドッティ司祭の身長、175.5-178.5cmとも一致、身元が確認されました。

この人物(シドッティ司祭)はキリスト教式に土葬されており、墓石には十字架の碑があったと報告されていました。国立科学博物館は、この頭蓋骨からシドッティ司祭の顔を復元に成功します。約300年の時を経て、日本の歴史に大きな影響を与えた宣教師の顔が明らかになったのです。(復元した顔は、上のビデオの23秒のところから見ることができます)

シドッティ司祭と二人の信徒の列副調査の開始

2019年、シドッティ司祭と二人の信徒、長助、おはるを、聖人とするため列副手続きが開始されました。列副調査には、マリオ・トルチヴィア司祭(Fr.Mario Torcivia)フランシスコ修道会のマリオ・カンドウィッチ司祭(Fr.Mario Canducci)、田中昇司祭が携わっています。

2019年の上智大学のシドッチ司祭のシンポジウムで、シドッティ司祭と同じパレルモ、シチリア出身のマリオ・トルチヴィア神父は、以下のように述べています。

「シドッティ神父は強い信仰にもとづき、日本の宣教活動を希望し、たとえ命に代えてもキリスト教を棄てないという覚悟でした.…(略)長助、はるが尊い殉教者として神の栄光のもとに導かれ この美しい国で人々に再び知られることを願っています」

歴史の再評価がすすむシドティ神父
Yakushima Heart TV

二人の信徒の洗礼に命をささげたシドッティ司祭

39 しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です。

-ヘブライ人への手紙 10:39

あるキリスト教徒ではない日本の方が私の知人に、シドッティ司祭が長介とおはるに洗礼を授けることを決めたのは残念だった、そうしなければ彼らの命は助かったのに、と話したそうです。長介とおはるへ同情的なこの意見は、シドッティ司祭が宣教師としての熱意のあまり、強引に洗礼を授けたのでは、という考えに基づいているのかもしれません。しかし、最後までキリストと教会に忠実だったシドッティ司祭には、そのようなことはなかったはずです。

カトリック教会における洗礼は、本人の自由意志に基づいて授けられるます。そのため、洗礼を望まない成人に洗礼を授けることは、教会法によって固く禁じられています。シドッティ司祭が長介とおはるに洗礼を授けたのは、彼らがそれを望んだからです。

新井白石の問いかけにシドッティ司祭は、「私はキリスト教を宣べ伝えるため、そして人々を助けるためにここに来ました 」と答えました。司祭として神から与えられた使命は、魂の救済です。その使命を果たすため、福音書にあるように、持ち物をすっかり売り払い(マタイ13:45、19:21)、弟子をつくり洗礼を授け(マタイ28:19)、命を捧げた(ヨハネ15:13)のです。

シドッティ司祭の生涯を研究しているマリオ・カンドヴィッチ氏は、シドッティ司祭について「長助とおはるに洗礼をさずけたことは大きな喜びであり、福音が伝えられる日が来るだろうと確信をもって、そのままいったのだろう(いった-恐らく殉教の意味)」と話しています。

剣に貫かれた聖母の心

34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(ルカ2:34-35)

ヨハネパウロ2世は1984年2月11日の書簡、「SALVIFICI DOLORIS」のなかで、神は時に私たちが神をより深く知るために、悲しみを用いることがあると述べています。

聖母の悲しみの日の福音には、老シメオンが聖母に伝えた言葉があります(ルカ2:34-35)。そこでは人の心にある思いがあらわにされ、マリアの心が剣で刺し貫かれるとあります。シドッティ司祭、老夫婦の受難と殉教は、魂の救いであると同時に、聖母マリアの深い悲しみだったはずです。そして「親指の聖母」は、日本の罪深さに最も悲しんだはずです。

シドッティ記念教会

1988年2月14日、シドッティ司祭が上陸した岬にシドッティ記念教会(サンタ・マリア教会)が建設されました。この記念教会は、シドッティ司祭に感銘を受け、イタリアから屋久島に移り住んだ聖ザベリオ宣教会の故レンゾ・コンタリーニ司祭の働きで完成しました。教会内には「親指の聖母」をモチーフにしたステンドグラスが収められています。

東京目黒にあるサレジオ会のカトリック碑文谷教会も、シドッティ司祭の「親指の聖母」に由来し、「江戸のサンタ・マリア教会」として建設されました。ここには「親指の聖母」の絵のレプリカがあります。

いつの日か、シドッティ司祭の親指の聖母が教会に戻り、悲しみの聖母へのミサが捧げられることを祈ります。

Source: One version of the Chaplet of Seven Sorrows can be found at number 383 of the Pre-Vatican II “Raccoltà” or Manual of Indulgences (Sacra Paenitentiaria Apostolica. Enchiridion Indulgentiarum… Typis Polyglottis Vaticanis MCML: Versio Anglica. New York, Benziger Brothers. 1957.)

image: Mater Dolorosa by Carlo Dolci

聖ジャンヌ・ダルク:異端審問(3)

天の啓示を受けたジャンヌは、1429年にオルレアンを解放し、シャルル7世をフランス王に即位させました。しかし翌1430年、ジャンヌはブルゴーニュ軍に捕らえられ、ルクセンブルク公ジャン2世の後見人のもとに置かれます。7月14日、ブルゴーニュ公は、イギリス王太子の名のもとに、ジャンヌを要求したボーヴェ司教、コーション(のちの異端審問裁判官)に、1万リーブル・トゥルノワで彼女を売り渡しました。

異端の罪に問われたジャンヌは、裁判にかけられることになります。ジャンヌが直面している戦いは、聖書にあるような「血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの―エペソ6:12」となります。

ボールヴォワールの牢獄塔から飛び降りたジャンヌ

ジャンヌはボーレヴォワール城の塔に囚われていました。監禁中、彼女はコンピエーニュがイギリスに占領されようとしていること、イギリスが女性や子供を含むすべての民衆を虐殺しようとしていることを知ります。彼女は、コンピエーニュの救出に向かおうと、60フィート(約18メートル)の塔から脱出しようとしました。紐を何かにくくりつけ(紐をどうやって手に入れたのか、何にくくりつけたのかは不明)、窓から身を下ろし脱出しましたが、その途中で落下してしまいます。その高さにもかかわらず、彼女は一命を取り留め、塔の下で意識を失って倒れているところを発見されました。


ジャンヌは、それまでにも何度か脱走を試みていました。そのため、この脱走劇の後、さらに厳しい監視下に置かれるようになってしまいます。ジャンヌに現れる聖カタリナは,、彼女に語りかけ、彼女の行いを咎め、神の許しを請うように告げました。ジャンヌはその命に従い、司祭に告解をしています。聖カタリナはジャンヌに、イギリス軍がコンピエーニュを奪還できないだろうと告げ、その通りになります。


裁判でジャンヌは、コンピエーニュでの大虐殺計画の知らせを聞いて、「善良な人々を破滅させてまで生き続けるくらいなら、死んだほうがましだ と感じた」と語りました。異端審問官達はこの供述をもとに、彼女を自殺未遂で訴ったえたのです。

1万ポンド・トゥルノワの価値とは?

金銭を愛することは、すべての悪の根である(1 テモテへの手紙 6:10

ジャンヌが売られた金額の価値は、裁判記録にある彼女の鎧の値段を目安にして考えてみることができます。

あるウェブサイトによると、シャルル7世がジャンヌのために用意した鎧兜の値段は100エキュスで、2500ソル、125ポンド・トゥルノワに相当したとあります。

続けて「比較すると、この鎧兜は最も安価な装備品の2倍の値段でありながら、最も高価な装備品の8倍も安かった」と説明されています。(Suit of Armour | Joan of Arc | Jeanne-darc.info

単純計算すると、ブルゴーニュ公がコションから受け取った金額は、ジャンヌが装着していたような鎧80着分、あるいは当時作られていた最も高価な鎧10着分に相当するということになります。

ブルゴーニュ公爵は、この世で一時的な富を得ることを選択しました。彼が受け取った金貨は、ジャンヌの報酬であっただけではありません。それはこの世の神(Ⅱコリント4:4)である悪魔からの支払いだったのではないでしょうか。この世の富を支配するのは悪魔であり、天に富を積むことを教える神を裏切っているからです。

権力に執着したピエール・コーション司教

ボーヴェ司教、ピエール・コーションは、ジャンヌの異端審問裁判と火刑執行に関わった人物として名を残しました。1413年、不祥事を起こしパリから追放されるまで、イギリスからパリ大学でのポストを与えられています。記録によれば、彼は学識があり、野心に満ち、自分の邪魔をする者を徹底的に排除しようとする人物だったそうです。

Tombeau de Pierre Cauchon

ボーヴェはコーションの教区の中心都市でしたが、イギリス領とフランス領の国境近くに位置していたため、たびたび戦火に見舞われました。ブルゴーニュ公の側につき、最強の支援者となったコーションは、褒美としてボーヴェの教会を与えられました。その幸運に満足しなかったコーションは、ウィンチェスター家との結びつきを利用して、ルーアン教区も手に入れようとしていました。この時の彼の企ては失敗しています。けれどもそれで「諦めた」と、いうわけではなかったのです。

ジャンヌに鼓舞され率いられたフランス軍がオルレアンを解放したことは、ボーヴェにとって脅威となりました。実際、コーションはボーヴェからの逃亡を余儀なくされています。コーションは、ジャンヌの成功が自分の不幸であることを憎しみとともに理解していたのです。

ですから、偶然、コーションの教区で、ジャンヌが捕縛されたことは、彼にとり思いがけない幸運でした。イギリスは、ジャンヌに魔女の烙印を押し、シャルル7世が神によって選ばれた王でないことを証明したがっています。コーションは裁判官として、ジャンヌを魔女と断罪することができるのです。それだけではなく、イギリスの敵であるジャンヌ排除の成功で、念願のルーアン大司教になれる可能性も見えてきたのです。

美徳よりも悪徳を選んだコーション

コーションは学識ある聖職者でしたから、神の目から見て何が罪であるかを知らないはずがありません。それにもかかわらず、彼の富と地位への欲望はとどまるところを知りませんでした。聖書には、その様な人について「貪欲な目は、自分の持ち分に満足せず、蓄財に身を削るという悪は、魂を干からびさせる」(シラ14:9)と書かれています。

彼は司教でありながら、神の栄光よりも自身の満足を求めたことは明らかです。コーションは、ジャンヌの裁判以前から、真実の追求よりも賄賂を好んでいた人物として知られていたようです。コーションはブルゴーニュ公からジャンヌを買い取り、イギリスに売り渡しました。もし彼が、ジャンヌをイギリスに渡さなければ、少なくとも火刑に処されなかったに違いありません。

ジャンヌの死を待ち望んだベッドフォード公爵

Duke of Bedford by the British Library.

「英国人は百人の兵士よりもジャンヌ・ダルクを恐れ、彼女の名前そのものが敵の恐怖の源であった」(Fabré, Lucien. (Fabré, Lucien. Joan of Arc. London: Odhams. 1955.)

ジャンヌには多くの敵がいました。その最も強力な敵の一人である、ベッドフォード公爵は、誰よりもジャンヌのカリスマ性を認めていたようです。彼はジャンヌの死を、切望していました。ジャンヌのせいで、イギリス軍の士気は下がり、敵対していない都市でさえ反英感情が高まり、経済は大打撃を受けていたからです

ベッドフォードの忠実な共謀者であったコーションは、ジャンヌの素性を調査しましたが、魔女であることを突き止めることはできませんでした。ベッドフォードは、教会がジャンヌを火刑にすることができないのなら、自分に渡すべきだと要求しました。ある意味、この時すでに彼女の運命は決まってしまっていたのです。

華々しい経歴を誇るベットフォード公

ジャンヌの勝利が奇跡的であったのかは、敵であったベットフォード公を知ると、より明らかになります。ベットフォード公は、戦闘経験もない田舎娘など問題にもならない、当時最も戦略に長けた軍人の一人であったからです。

ベットフォード公の才能は、戦いだけでなく政治にも発揮されています。1415年、そして1417-19年にかけ、中尉としてイギリスの政務も担当しています。またヘンリー5世と共にイギリス王位継承権を認めるトロワ条約(1420年)を締結させました。また1424年、ヴェルヌイユでのスコットランドとフランスの争いに参戦、イギリスに勝利をもたらしています。

ベットフォード公は、ジャンヌの火刑の後、ヘンリー6世がフランスで戴冠式を行えるよう手配をしています。1431年12月16日、ヘンリー6世はパリのノートルダムで戴冠式を行いました。けれどもイギリスに不利に傾いた状況は、その後も改善されることはありませんでした。1435年9月14日、ベットフォード公はルーアンで死去、その一週間後に百年戦争は終結しました。

John, duke of Bedford – Wars of the Roses

なぜシャルル7世 はジャンヌを救おうとしなかったのか?

Charles VII

このような苦境にいるジャンヌを、王になったシャルルは、熱心に助けることはしませんでした。シャルルがジャンヌに無関心だったのは、政治的な抜け目のなさによるものなのか、それとも単なる恩知らずによるものなのか、歴史家の間でも意見が分かれています。

恐らくシャルルは、イギリスからジャンヌを取り戻そうとすることで、新たな戦争が始まる可能性を恐れたのかもしれません。あるいは、ラ・トレモイユのようなジャンヌの敵から、彼女を助けないよう吹き込まれたのかもしれません。シャルル王が喜んで支払った身代金は、ごく一般的な金額でした。シャルルは、多額の身代金を払いたくなかったと言われています。

ジャンヌはシャルルに、彼女には一年しか時間がないと常々言っていました。シャルルにとり捕縛されたジャンヌは、神の恩恵を失った存在であり助ける価値がない、と判断した可能性も否定できません。

ジャンヌの裁判について真実を要求したシャルル

ジャンヌの死後、シャルル7世は(可能であれば)汚名を晴らすために、彼女の復権裁判を要求しています。多くの人は、シャルルが復権裁判を要求したのは、自分の王位継承権が神からのものであることを証明する利己的な目的のためだったと考えています。

一方、ジャンヌが処刑されたと聞き、シャルルの心は傷ついたと言われています。優柔不断で臆病な王は、センチメンタルな気分も味わっていたに違いありません。

1453年、シャルルはイギリス軍をほぼすべて撃破して百年戦争を終結させ、フランスに平和と秩序の回復をもたらしました。その功績にもかかわらず、彼はジャンヌ・ダルクを見捨てた王として最もよく記憶されています。

ジャンヌは精神病だったのか?

フランスを勝利に導くよう、彼女を鼓舞した神秘的な声について、彼女の証言は次のように記述されています。

ジャンヌはまた、自分の声は大天使ミカエル、聖女カタリナ、聖女マルガリタであったと公判で述べ、さらに次のように述べた。「私は肉眼で、あなたがたを見るのと同じように、はっきりと彼らを見ました」

ジャンヌの声や幻視については論争があり、一部の精神科医は、ジャンヌが幻聴を伴う精神疾患の一種である統合失調症であった可能性を示唆しています。その一方で、教育を受けていないにもかかわらず、彼女には高い知性と記憶力、明晰さがあったことも認めています。これらの情報を分析し、彼女について書いたのは、精神病に精通した医師達です。

医学ライターのクリフォード・アレンは、統合失調は通常15歳ごろから現れ始めると報告しています。ジャンヌの場合、13歳で声を聞いたということから、症状が早くから現れていたことになりますが、決してありえないことではないと指摘しています。(The Schizophrenia of Joan of Arc – Medievalists.net

ジャンヌは戦術に長けていた?

一方、彼女に関する多くの不思議な逸話は、精神病や単なる偶然の一致として片付けるのは難しいといえます。仮に声の原因が、統合失調症だったとしましょう。その場合、ジャンヌは統合失調症の10代の若者が軍隊を率い、勝利に導いた歴史上唯一の例となります。

ジャンヌの復権裁判において、テルメ卿、シャルトル伯爵、騎士のチバウド・ダルマニャック卿は、「軍隊を指揮し、命令を下し、戦闘を整え、兵士を鼓舞することにおいて、ジャンヌ・ダルクは最も熟練した隊長達に匹敵するほど戦術に長けていた」と証言しています。戦闘経験のないジャンヌが、経験豊富な兵士を驚かせるような戦い方、特に大砲の扱い方を知っていたとは論理的に説明しがたいのです。

神を冒涜した兵士の死

「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」(出エジプト記20:7)

声の真意について明確な答えはありません。はっきりしているのは、ジャンヌはその声に従い、多くの戦いで正確な予知を行ったということです。裁判では多くの人が証言しましたが、彼女の神秘的な予知能力に関する興味深い逸話が、パスクレル司祭によって語られています。

パスクレル司祭は、ジャンヌがある城に入る途中、兵士が若い乙女(ジャンヌ)が通り過ぎるのを見て、粗野な言葉を使ったと語っています。その兵士に向かって乙女は、神を冒涜していると叱責し、その兵士は、一時間以内に天の玉座の前に召されるいう裁きの前に、召喚されるまさにその時に、神を否定したのだと付け加えました。その兵士は1時間以内に溺死しました。これがパスクレル司祭の証言です。

㊟パスクレル司祭は、ジャンヌが城に入る途中、若い乙女が通り過ぎるのを見たある兵士が、下品な言葉を発したのを目撃しー(つまり)失礼な言葉に(神の)誓いを付け足したと語る。


パスクレル司祭の証言から、私たちはジョアンの予知能力について知ることができます。人は時に、家族や身近な人の悲劇を予知することができます。しかしジャンヌは、見ず知らずの兵士の死をはっきりと知っていたのです。


当時、兵士が神の名を軽々しく使うことは珍しくありませんでした。けれども、ジャンヌはそのような、軽々しく神を冒涜する行為を厳しく批判しました。現代人のほとんどは、この逸話に登場する兵士のように、神の名を軽率に使うことがもたらす結果に、気づいていないに違いありません。

異端審問での逸話

ジャンヌの裁判は1431年2月21日月曜日に始まりました。断食と祈りの四旬節は3月に始まることが多いのですが、1431年は2月23日(水)から始まっています。イエスの受難に心を合わせ、ジャンヌはどのような四旬節の祈りを捧げたのでしょうか。

神は確かに彼女を守っておられたのです。裁判では、司教コーションと審問官たちがジャンヌを陥れる罠を仕掛けていました。やがて彼らは、ジャンヌが簡単には罠にかからないことを知ることになるのです。

悪魔の名において

「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(ヨハネ8:44)

ある時コーションは裁判の間、ジャンヌが、教導官を務めたラ・フォンテーヌと、二人のドミニカン修道士から助言を受けているのを目撃します。コーションは、その光景を見ると、すぐに彼の策略を邪魔するつもりだと気がつき、怒りに我を忘れました。そして彼らに対し「悪魔の名において、沈黙しろ!」と叫んだのです。それだけではなく、教皇とシノドスへのジャンヌの訴えを記録から削除し、何事もなかったかのように装ったのです。

ジャンヌに友好的な助言をした、二人のドミニカン修道士は、彼らの長上の機転で救われました。ですが、ラ・フォンテーヌは裁判が終わる前にルーアンから逃亡しています。

悪魔はコーションを通し、働いていたのでしょう。神の名を軽率に口にすることが神を否定することであるならば、悪魔の名によって命令を下すことは、あらゆるものの中で最も恐ろしい冒涜に違いありません。

異端審問官達を驚かしたジャンヌの答え

わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ 10:16)

コーションを筆頭とする敵は、彼女に不利な証言をひきだすために、ありとあらゆる手をつくしました。ジャンヌには、正式な弁護人さえもつけられなかったのです。それにも関わらずジャンヌは、神学的な知識に精通している審問官たちが、驚くような答えを返しています。

例えば、コーションはジャンヌに「あなたは神の寵愛を受けていると思うか」と尋ねました。

ジャンヌは「もし私がそうでないなら、神が私をそこに置かれますように、もし私がそうなら、神が私をそうされますように。もし私が神の恩寵の中にいないと知っていたら、私はこの世で一番悲しい生き物になるでしょう」と答えました。

この答えに審問官達は、驚かされました。なぜならコーションのこの質問は、ジャンヌのような素朴な田舎娘には、知るすべのないトリックが隠されていたからです。

コーションの質問の罠

わたしの魂は屈み込んでいました。

彼らはわたしの足もとに網を仕掛け

わたしの前に落とし穴を掘りましたが

その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。

(詩編57:7)

カトリック教会の教えによれば、人が「恩恵の状態にある」と絶対的に断言することは、僭越(せんえつ)の罪となります。そのため、もしジャンヌが「恩恵の状態」である断言すれば、審問官たちは彼女が罪を犯している、すなわち悪に傾倒していると言うことができたのです。

一方、もし彼女が恩恵の状態にあることを否定すれば、彼女は自分が十分に悔い改めていない罪人であることを認めることになります。どちらの答えでも、ジャンヌは罪の状態で行動していたことになります。言い換えれば、彼女を導いていたのは、神ではなく悪魔だったということになるのです。

モーゼの律法とジャンヌの男装

女は男の着物を身に着けてはならない。男は女の着物を着てはならない。このようなことをする者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。(申命記 22:5)

コーションは、彼女の証言にまったく反する数々の偽証拠と罪状を用いて、ジャンヌを異端として告発しました。恐らく、ジャンヌに対する立件がかなり弱いことを恐れ、何としても彼女を異端と断定したかったのだと考えられます。コーションは、ジャンヌが男物の服を着ていることを非難し、申命記22:5のモーセの律法を引用しました。

それだけでなく、ジャンヌの敵は、幻視や啓示を受けたことはなく、神の命令で行動したというのは嘘で、神を冒涜する異端者であるという旨の声明書に署名させるために、恐ろしい策略をめぐらせていました。

審問官達は、彼女の魂を救うという口実で、拷問を計画しました。ジャンヌに恐怖を与えるため、彼らは拷問器具を見せましたが、彼女は屈しませんでした。

異端審問による聖ジャンヌの裁判の記録や、死後の復権裁判の記録には、ジャンヌの素朴でまっすぐな人柄を窺い知ることができます。また家族、声、ジャンヌによるとされる奇跡について詳しく知ることができる逸話が数多く残されています (残念ながら、ここでそのすべてを紹介することはできません)。多くの逸話は、ジャンヌの聖性をはっきりと示すだけでなく、ジャンヌの聖性がコーションや審問官たちに決して認められなかったことも示しています。

聖体への冒涜

裁判員たちがジャンヌに対して行った非難のひとつは、女性が男装して聖体拝領を受けることは冒涜に等しいというものでした。

しかし、男女の服装に関するモーゼの掟が、実際にキリスト者の良心を拘束するかどうかは明らかではありません。簡潔に言えば、イエス・キリストは神であるため、その神聖な権威を用いてモーゼとの古代の契約を成就し、新しい契約を結ばれたからです。その際、モーゼの道徳律はすべて支持されましたが、民法や儀式律は支持されませんでした。

さらに、申命記の男性の服装に関する箇所はあまり知られておらず、熱心に探さなければ見つけることは困難であったでしょう。コーションと異端審問官が、時間と労力をかけて獲物を執拗に追い詰めたことがよく分かります。

時代遅れとみなされていた儀式律法

男女の服装に関するモーゼの掟が、実際に、キリスト教徒に対する権威を発揮するのかどうかは明らかではありません。簡潔に言えば、イエス・キリストは神であるため、その神聖な権威を用いてモーゼとの古代の契約を成就し、新しい契約を結ばれました。その際、モーゼの道徳律はすべて保持されましたが、民法や儀式律に対してはされませんでした。衣服に関する律法は、神学者たちは通常、時代遅れの儀式律法に属すると考えているものです。恐らくそれが、男装をし、聖体を拝領するという問題を取り上げた理由でしょう。聖体を持ち出すことで、彼女を 「冒涜 」の罪に問うことができたからです。

Image: The Trial of Joan of Arc, by Louis Maurice Boutet de Monvel 

Sources:

Fabré, Lucien. Joan of Arc. London: Odhams. 1955.

Gower, Ronald Sutherland, Lord. Joan of Arc. London: J.C. 1893.

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聖母のエリザベト訪問の祝日

7月2日は、聖母マリアが、妊娠中のいとこのエリザベトを訪問したことを記念する祝日です。訪問を記念するという意味のなかには、このエピソードの中にある、神学的に豊かな意味が含まれたお祝いになります。伝統的には7月2日に祝われますが、ノヴス・オルドでは5月31日となっています。聖書には、以下のように語られています。

39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。 40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。 41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

–          ルカ 1:39–45

胎児であった洗礼者ヨハネの喜び

上で述べましたが、エリザベトのお腹の中にいた子どもは洗礼者ヨハネでした。旧約聖書の預言者たちが皆そうであったように、ヨハネはメシアが来られることを預言しました。(ヨハネ1:19-28)ヨハネは、ある日、イエスが自分に向かって歩いて来られるのを見て、人々に「神の小羊だ」つまり、この方こそメシアですと告げました。(ヨハネ1:29-34)このため、ヨハネは旧約聖書の最後の預言者として知られています。

伝統的な解釈によれば、預言者であったヨハネは、マリアの胎内にいた胎児イエスがメシアであることを悟り、喜びのあまり踊ったと言われています。

アベマリア

聖霊に満たされたエリザベトが、マリアに告げた祝福の言葉は、カトリックの聖母への祈りである 「アベマリア 」の一部となりました。

    Ave Maria, gratia plena, Dominus tecum.

    Benedicta tu in mulieribus, et benedictus fructus ventris tui Jesus.

    Sancta Maria, Mater Dei,

    Ora pro nobis peccatoribus, nunc, et in hora mortis nostrae.

    Amen.

  アベマリア、恵みに満ちた方、
    主はあなたとともにおられます。
    あなたは女のうちで祝福され、
    ご胎内の御子イエスも祝福されています。
    神の母聖マリア、
    わたしたち罪びとのために、
    今も、死を迎える時も、お祈りください。

(太字の部分は16世紀に追加されました)

Ave Maria – Gregorian Chant – Chants of a Lifetime

福音書は、コイネーギリシャ語で書かれています。コイネーギリシャ語は、ローマ帝国の共通語で、ユダヤ人が公の場や異邦人と話すときに使われたと考えられています。しかし、エリザベトは、おそらくアラム語でマリアに挨拶したと考えられています。アラム語は当時のパレスチナ系ユダヤ人の母国語であり、おそらく彼らが家庭内で使っていた言語だと信じられているからです。

以下のビデオでは、シューベルトのアベ・マリアを聴くことができます。

Schubert: Ave Maria, ‘Ellens Gesang III’ D839
Friar Alessandro

マリアの言葉 マニフィカト

マリアがエリサベトに語った言葉は、ルカによる福音書1章46節から55節にあり、マニフィカトと呼ばれています。マニフィカトは伝統的に晩の祈り(Vespers)で歌われ、通常は日没の頃に歌われます。以下はその一部となります。

そこで、マリアは言った。

「わたしの魂は主をあがめ、

わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

身分の低い、この主のはしためにも

目を留めてくださったからです。

今から後、いつの世の人も

わたしを幸いな者と言うでしょう、

力ある方が、

わたしに偉大なことをなさいましたから。

–          ルカ 1:46–49.

Magnificat chanted by the Monks of Fontgombault Abbey-Lucas Orsot

ゼカリヤの賛歌

晩の祈り(Vespers)でマリアの聖歌が歌われた後、就寝前の祈り(Compline)でシメオンの賛歌(ルカ2:29-32)が歌われ、日の出の頃、朝の祈り(Lauds)でゼカリヤの賛歌(ルカ1:68-79)が歌われます。以下はその一部となります。

ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。

主はその民を訪れて解放し、

我らのために救いの角を、

僕ダビデの家から起こされた。

昔から聖なる預言者たちの口を通して

語られたとおりに。

それは、我らの敵、

すべて我らを憎む者の手からの救い。

–          ルカ 1:68–71.

Benedictus (Canticle of Zechariah, Solemn Psalm Tone 1f

古い本に見つけたアイルランドの伝統的なマリア賛歌

今年の7月2日は日曜日でしたが、教区司祭のお説教の中で、マリアがエリザベトを訪問したことについて特にお話しはありませんでした。ほとんどの教区司祭はノーヴス・オルドの暦に従って説教しますので、これは驚くことではありません。それにしても、せっかくの聖母マリアの祝日なのに、伝統的な暦について何も語られず、いささか寂しい気がしていました。

ミサの後、いつものように教会内の小さな図書コーナーに立ち寄りました。教会の図書コーナーには、時代から取り残されたような古本がたくさんあり、自由に借りることができるからです。

借りたい本を何冊か取り出していると、目立たないところに赤い背表紙と中世風の女性の絵が描かれた本が目に入りました。手にとりよく見てみると、小さな字でセイント・ルーシーとあります。背表紙の女性は聖ルーシー(ルチア)で、私の守護聖人の一人です。興味をそそられた私は、『My Nameday-come for Dessert』(ヘレン・マクローリン著)というタイトルの、その本を開いてみました。

私が偶然開いたページは、7月2日の「聖母のエリザベト訪問の祝日」のページで、おすすめの賛美歌がありました。最近の音楽にはない、シンプルで素朴な魅力をもつ賛美歌です。マリアの祝日のひとつに、私の守護聖人を通し、神がこの歌と祈りを紹介してくださったようで、とても幸せな気分になりました。

「Oh Mary of Graces― ああ、恩恵のマリアよ」 静かな祈りの旋律

この賛美歌は、もともとはアイルランド、ゲール語の伝統的なフォーク・ソングだったそうです。伝統的なアイルランドの歌い方はアカペラで、楽器の伴奏はなく、物語を語りながら目を閉じて歌いました。

この短くも美しい歌は、ゲール語から英語に翻訳され、「Oh Mary of Graces ーああ、恩恵のマリアよ」と呼ばれています。原曲の静かな旋律は、心にしみる哀愁があります。私はこの曲に悲劇に見舞われた人が、聖母に祈りを捧げているような印象をいだきました。と同時に、自分の不幸を嘆くのではなく、祈りによって乗り越えようとする人の強さも感じます。

伝統的なゲール語では歌われていませんが、ジョナス・エクルンド(Jonas Eklund)氏のビデオは曲の雰囲気にぴったり合っています。ギターのシンプルな伴奏に合わせ、ゆったりとしたテンポで少女が透明感のある声で歌っています。

O Mary of Graces- Jonas Eklund

この聖母への美しい祈りと賛歌が忘れ去られることなく、後世に語り継がれることを祈ります。

Source: McLoughlin, Helen. My Nameday–Come for Dessert. Collegeville, MN: The Liturgical Press, 1962.

Image: The Visitation 1433-1434 Fra Angelico

聖ジャンヌ・ダルク: 悲劇への序曲(2)

私が信頼していた親友、
私のパンを食べたかれでさえ、私に向かってかかとを上げた。

-詩篇41:9(ドン・ボスコ社)

民衆はジャンヌを崇拝し、彼女がもたらした勝利と平和に酔いしれていました。そのような熱狂的な民衆とは対照的に、フランスの貴族や軍司令官の中にはジョアンに嫉妬を抱く者たちがいました。詩篇41篇10節にあるように、ジャンヌの本当の敵は味方の中にいたのです。

赤いドレスの贈り物と予知

ランスに向かう途中、シャロンの近くで、ジャンヌはドムレミ村からやってきた友人たちと会いました。彼らとつかの間の楽しい時間を過ごしたジャンヌは、赤いドレスを贈られました。そこでジャンヌは、彼女を待ち受ける悲劇的な運命を予感させるような言葉を口にしています。彼女は二人の旧友に、将来への唯一の不安は裏切りであることを告げたのです。(Gower, Ronald Sutherland, Lord, Joan of Arc. 1893.)

ジャンヌはただ単に、自分の運命についての漠然とした不安を、古い友に語っただけなのでしょうか。それとも、神から何らかの警告を受けていたのでしょうか?偶然かもしれませんが、彼女が友人から送られたドレスの赤は、殉教者の典礼色です。神の導きに最後まで従い、火刑に処された彼女の死を象徴していたかのようです。
いずれにしろ、この小さなエピソードは、コンピエーニュで起こる悲劇を予知していたのです。

1429年7月17日:王の戴冠式-神の預言の成就

ジャンヌが王に告げた、神の意志は成就されました。シャルル7世はついに、国王に即位したのです。

王はオルレアンの乙女を右手に従え、ランス大聖堂に入りました。王太子はサン=レミーの古い修道院教会の聖油で油を注がれ、フランス王となったのです。ジャンヌは戴冠式の間、旗をもち、王のそばに立っていたと言われています。

IV. Le sacre de Charles VII: V. “Te deum”

戴冠式において、王のそばで旗をもつことは伝統的マナーではありませんでした。王がこの慣例に反することを許可したことは、ジャンヌの功績に感謝していることを明らかにしています。

ジャンヌは戴冠式が終わると、ひざまずき、王の足を抱きしめると、以下のように告げたことが知られています。

「気高い王よ、今こそ神のご意思が成就しました。神は、私がオルレアンの包囲を解き、あなたをこのランスの町にお連れし、聖なる戴冠式をお受けになることで、あなたが真の王であり、フランスの王位を受け継ぐ者であることをお示しになっているのです」

この言葉を聞いて、(国王を除く)その場に居合わせたすべての人々が涙を流したと言われています。ジャンヌの言葉から、彼女には傲慢さがなく、王の栄光を自分の手柄にしようとしなかったことが理解できます。

ジャンヌの願った永遠の安息の地

「私が死んだら、この善良で敬虔な人々の中に埋葬されたいのです」と彼女は言った。「でも、神様が私を故郷に、妹や弟たちのもとに帰らせてくださるなら、どんなに嬉しいことでしょう!とにかく、私は救い主に命じられたことをしたのです」( Gower, Ronald Sutherland, Lord, Joan of Arc. 1893.)

戴冠式は成功しました。そのような華やな式典にもかかわらず、なぜか彼女は、自分の将来を、予感していたかのような言葉を大司教に残しています。

ジャンヌは自分の死と埋葬について話していました。このとき、彼女はまだ10代です。そのような年齢で、自分が死んだらどこに埋葬されるかを気にしていたのは不自然に思えます。彼女は続けて、神から託された使命を果たしたことを明らかにしています。

シャルル7世はジャンヌの功績をたたえ、彼女とその家族を貴族にし、紋章と金銭的報酬を与えました。ジェレミー・アダムス博士によれば、戴冠式の後、国王はジャンヌの仕事は完遂されたと宣言し、田舎に戻るよう求めたそうです。使命を果たした彼女は、生まれ故郷のドムレミ村に戻り、そこで修道女として神に仕えながら静かに暮らすこともできたでしょう。しかし実際には、彼女は別の道を選んだのです。

1430年4月: パリ奪還の失敗

ジャンヌは、フランスの未来の安全を維持するために、パリを奪還しなければならないと考えていました。ところが、パリの人々はすでにイギリスのヘンリー6世に忠誠を誓っていました。そのため民衆は、フランス王がパリを支配すると報復を受けるのではないかと恐れ、城壁都市パリの守りを固めていたのです。

残念ながら、ジャンヌの兵力はパリのような、強固な城壁と塔を持つ場所を攻撃するには不十分でした。優柔不断なシャルル7世がようやく兵を増派し、ジャンヌは攻撃を開始しますが、パリを奪還することはできなかったのです。

この時、ジャンヌはクロスボウの矢で、大腿部に深い傷を負いましたが、戦場に残りつづけていました。結局、彼女の意に反し、退却せざるを得ませんでしたが、攻撃を続けていれば勝利していたに違いないと抗議していたそうです。

二人の敵-いつわりの口、いつわりの右手

7.上から、み手をのべ、

大水から、罪深い剣から、私を救い出されよ。

異邦の子らの手から、私を解かれよ。

8.かれらの口は、いつわりを語り、

その右手は、いつわりの誓い。

-詩編14:7-8(ドン・ボスコ社)

ジャンヌのパリ奪還の失敗は、味方のふりをした敵を喜ばせました。特に二人の敵、ランス大司教とジョルジュ・ド・ラ・トレモアイユ(1382年頃~1446年5月6日)は、すべての責任をジャンヌに押し付けるよう王に働きかけました。その結果、国王はランス大司教に、ジャンヌの意向に反してイングランドと停戦協定を結ぶことを許可したのです。

レニョー・ド・シャルトル(Regnault de Chartres 1380-1444)

ランスの大司教レニョー・ド・シャルトルは、ジャヌから戴冠式の時に、不吉な予感を感じさせる言葉を聞いた人物です。ジャンヌは、まさか彼が敵である、とは思わなかったはずです。

彼女から埋葬場所の願いを聞いた大司教は、どのように答えたのでしょうか。誰も知りません。しかし大司教はジャンヌが捕らえられた時に、神の正義の証明である、と大喜びとしたといわれています。ジャンヌ捕縛の知らせを、ランス市民に伝えたのは彼ですが、ジャンヌは高慢であり、神よりも自分の意志に従おうとしたことで神の怒りをかったと伝えています。

ジョルジュ・ド・ラ・トレモアイユ(Georges de La Trémoille 1382-1446)

ジャンヌのもう一人の宿敵は、ジョルジュ・ド・ラ・トレモアイユという貴族です。彼はジャンヌの忠実な騎士で、後に殺人犯として知られるようになったジル・ド・レと遠縁の関係にあります。ラ・トレモアイユはその抜け目のなさから、シャルル7世に大きな影響を与えた人物でした。彼の残酷性は、彼の金銭的利益と地位のため、シャルル7世の寵愛を受けていたピエール・ド・ジャックを誘拐し、溺死させたことからも理解できます。

彼は国王をランスに行かせないために、あらゆる手を尽くしました。また、さまざまな場面でジャンヌを妨害し、彼女が再びパリを攻撃しようとしたときにも阻止しています。後にジャンヌが捕われた時、王が釈放を得られなかったのも、彼の影響力だと言われています。

声がつげたジャンヌの暗い運命

ジャンヌの声はもはやかつてのように、明確な命令を与えることありませんでしたが、彼女はフランスを救うために戦い続けていました。

1430年4月初旬、復活祭の週にムランの町にいたジャンヌに、聖カタリナと聖マルガリタが、語りかけました。彼らはジャンヌに、聖ヨハネの日(6月24日)の前に捕虜になるが恐れるなと告げています。彼女は聖人たちに、捕虜になったらすぐに死ねるようにと願ったと伝えられています。(The Battle of Jargeau 12 Jun 1429 (jeanne-darc.info)

この出来事があった後に、ジャンヌはラニーの戦いに赴きます。捕虜になるかもしれない、という恐怖さえ、フランスを救うという彼女の燃えるような心を変えることはなかったのです。(.Joan of Arc | Biography, Death, Accomplishments, & Facts | Britannica

1430年4月 ラニー=スル=マルヌの戦い: 斬首された男

イギリス側のブルゴーニュ軍は、パリの防衛を強化するため、アラスに大軍を集結させていました。ブルゴーニュの軍隊は、アラスのフランケに率いられ、ラニーに向かっていました。けれども、彼らはラニーに向かう途中、別の都市を略奪しています。その結果、その知らせを受けたフランス軍は、彼らが向かってくることを知り、戦いに備えることができたのです。

ラニーにいた兵士たち、フランス軍の援軍、そしてジャンヌたちの努力のおかげで、アラスのフランケは捕らえられ、彼の部下たちは殺されるか捕虜となりました。フランケはその後、ジャンヌが欲しがっていた捕虜と交換されるはずでしたが、その捕虜はすでに死んでいたことが判明します。さらに、アラスのフランケは略奪だけでなく、殺人の罪も犯していたことが裁判で明らかになりました。彼をどうするかと問われたジャンヌは、部下たちに「正義が求めるままに、この男をしなさい」と告げたと言われています。(The Battle of Jargeau 12 Jun 1429 (jeanne-darc.info)

人の罪を憐れむ神の愛

ジャンヌは、正義が求める罰について、具体的なことは述べてません。フランケの刑罰は、斬首でした。後にフランケの斬首は、ジャンヌの運命を決定付ける要因となってしまいます。異端審問は、ジャンヌがフランケ斬首の責任があるとし、それが彼女の火刑の理由の一つとなったからです。

フランケの処刑は、正当だったのでしょうか。フランケは陪審員によって裁かれ、殺人罪で有罪となりました。他方、捕虜として、彼にはいくつかの権利が与えられていました。その中には、彼の属する領土で、裁きを受ける権利の可能性も含まれていました。しかし、この権利については、当時明確ではなかったのです。

聖書には、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)とあります。

神の目から見て、ジャンヌがフランケの斬首に対して、どれほどの責任を負っていたかはわかりません。けれども、キリストが私たち罪人を憐れんでくださったように、彼女がフランケを憐れんでいたなら、フランケにも生き延びるチャンスがあったのかもしれません。

1430年5月23日 :コンピエーニュ包囲戦で捕らえられたジャンヌ

The Capture of Joan of Arc, ca. 1850 by Adolphe Alexandre Dillens

ジャンヌ最後の戦いは、聖霊降臨祭の日のコンピエーニュ包囲戦でした。理論的には、聖霊降臨祭のような大祭、そして日曜日に戦闘を行うことは「神の平和と休戦」によって禁じられていました。しかし、すでに15世紀には、「神の平和と休戦」は、ほとんど無視されるようになっていたのです。(このテーマを調べているうちに、15世紀半ばには、すでに世俗主義の精神が、これほどまでに広まっていたことを知り、驚いたことを付け加えておきます)おそらくジャンヌは、聖霊降臨の祭日でも、軍を戦わせるつもりだったのかもしれません。もしくは兵士がどうしても、戦うと主張したのかもしれません。ジャンヌがなぜ、この日に戦いに行くことを決意したのか、私たちに知るすべはありません。

ともあれ、ジャンヌは500〜600騎の騎兵と歩兵を率いて、ブルゴーニュ公を攻撃しました。戦いの最中、ジャンヌは弓兵に馬から引きずり降ろされ、ブルゴーニュ軍の捕虜となってしまいます。イギリスとブルゴーニュは、500人の兵士を捕らえたことよりも、ジャンヌを捕らえたことを喜んだと言われています。( The campaigns of Joan of Arc, according to the Chronicles of Enguerrand de Monstrelet (deremilitari.org))

イギリスに売られたジャンヌ

捕らえられたジャンヌは、ジャン2世・ド・リュクサンブール(1392-1441)の後見人の下に置かれました。リュクサンブールのドゥモワゼル(未婚女性)と知られた、彼の叔母(ジャンヌ・ド・リュクサンブール)は、ジャンヌに同情的で、彼女をイギリスに売ることに反対していました。

彼女がジャンヌに同情的だったのは、ジャンヌ同様、彼女も非常に敬虔だったからと思われます。ジャンヌにとり不幸だったのは、1430年、ドゥモワゼルはアビニョンへ、弟の墓詣に行き、同地で死去してしまったことです。

ドゥモワゼルの弟ピエール・ド・リュクサンブールは、1387年に亡くなるまでアヴィニョンの枢機卿を務めており、聖人と見なす人もいました。1527年、ピエール・ド・リュクサンブールは、教皇クレメンス7世によって列福されています。

伯母の死後、相続の心配がなくなったジャン2世は、身代金と引き換えにジャンヌをイギリスに売り渡しました。伯母の遺言である、ジャンヌを売り渡さないことを条件にした財産贈与の条件を無視したのです。こうしてジャン2世は、莫大な財産を手にしましたが、翌年、あっけなく亡くなっています。

ジャンヌは、国王シャルル7世の戴冠式まで、次々と幸運に恵まれ成功してきました。ですがその後の彼女の人生には、暗い影が落とされました。ジャンヌは幾度も、自由になるべきチャンスがありながら、何度も何度も裏切られたのです。

Image: Joan in Reims Cathedral by Jules-Eugène Lenepveu

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イエスの聖心の祝日

聖心の祝日おめでとうございます。

イエスの聖心の祝日は、聖体の祝日の次の金曜日に祝われます。

イエスの聖心の祝日は、17世紀にフランスの幻視者であり修道女であった聖マルガリタ・マリア・アラコクが、神の啓示を受けたことからはじまっています。2000年の教会の歴史の中では比較的新しい祝日ですが、バチカンによるいくつかの承認を経て、現在では教会の暦の中で最も大切な祝日のひとつとされています。

イエスの聖心:肉と霊

カトリック聖務日課集は、カトリックの祈り、詩編、朗読(聖書など)そしてカトリックの祝日や典礼に従って編集されている本です。聖務日課集は、西方教会のすべての司祭・修道女が伝統的に毎日使用しているものでした。(もちろん、ラテン語で書かれています。)その伝統的聖務日課集を、原文のラテン語から美しい英語に翻訳され、ある典礼財団から「聖務日課集-英語版㊟」として英国教会が出版しています。そしてイエスの聖心について、カトリック神学に基づいた説明が加えられ、大変わかりやすい解説が書かれています。以下は、その解説の概要となります。㊟ バチカンによっての承認はありません。

イエスの聖心はいつはじまったのか?-カトリック聖務日課集より


イエスの聖心への献身がいつ始まったかについての記録はありませんが、それが古い伝統であることは間違いありません。この献身は、初代教会ですでに(少なくとも、赤子のような状態で)存在したことは明らかです。以下は、聖務日課集の簡単な要約になります。

例えば神(イエス)の愛についてですが、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)あります。三位一体の概念があるため、神の愛はイエスの愛でもあります。

またパウロの手紙は、神の愛と慈悲にふれています。

8しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。 (ローマ人への手紙5:8)

聖マルガリタ・マリアに現れたイエスの姿は、受難をうけ傷ついたイエスのこころと姿も象徴しています。このイエスの受難とイエスの受けた傷についての信心も、初期教会時代にはじまっています。

イエスの愛だけでなく、イエスの受難の傷も、初代教会では黙想と献身の対象となり始めていました。パウロの手紙には、以下のように書かれています。

7これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。(ガラテヤ6:17)

「イエスの焼き印」とありますが、これは伝統的に聖痕のことだと解釈されています。

4世紀の聖人、聖アウグスティヌス聖ヨハネ・クリソストモス(金口イオアン)は、十字架にかけられたキリストとアダムを比較しています。アダムが眠り、脇腹からエバがとられたように、十字架にかけられたキリストは死の間「眠り」ながら、槍で脇を貫かれ、血と水が流れ出し、教会を誕生させたと説明しています。

イエスの聖心についての解説

私たちの主は、「わたしは心の柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい㊟」(マタイ11:29)(ドン・ボスコ社訳)と教えています。イエスの言葉のなかで「心」が使われていることから、イエスの聖心という概念は、イエスの時代にすでに存在していたと理解できます。

㊟新共同訳には「心」という言葉は入っていません。英語訳には “I am humble and gentle at heart”とあるようにHeart(心臓、心)の言葉が使われています。

聖書の言葉において、心臓は感情だけでなく、人間の内面や精神生活全体を象徴しています。ですから、イエスの心臓は、イエスの愛、慈しみ、知恵なども象徴しています。けれども、イエスの聖心は単なる象徴にとどまりません。

キリスト教信仰の基盤

キリスト教の信仰の基盤とは、紀元1世紀が始まる少し前、永遠の言葉である神が、肉体を持った人間になったということです。その人間は「イエス」と名付けられ、神であると同時に人であるからです。イエスの人間性を崇拝することは、神であるイエスの神性を崇拝することであり、両者は密接に結ばれています。言い換えるとイエスの聖心祭は、イエスの肉体、つまりイエスの体中に血液を送り出す心臓そのものを賛美し、礼拝することによって、神を賛美する日なのです。(ここまでが聖務日課集の要約となります)

キリスト教の興味深い部分は、霊である神を礼拝するだけではなく、イエス・キリストの肉体も礼拝することです。私の知る限り、一神教を主張しながらも、実際の肉体である心臓を崇拝の対象とする宗教はキリスト教だけです。イエスの聖心は、人間には理解しがたい三位一体と深く関わる、神の神秘に満ちた祝祭なのです。

余談ですが、上記の「心臓」という言葉は、ギリシャ語でもヘブライ語でも、肉体の心臓を指します。さらに、肉体の心臓であるイエスの聖心礼拝をより深く理解するためには、父、子、聖霊の三位一体を知る必要があります。三位一体については、私には説明できませんので、ここでは割愛します。興味のある方は、小教区の司祭にお尋ねください。

イエスの聖心と12の約束

Chanted Litany of the Sacred Heart of Jesus in Latin | Litaniae Sacri Cordis Iesu (English Captions)

イエスは聖マルガリタ・マリア・アラコクに、イエスの聖心を信じる者に12の約束をされています。イエスの聖心への帰依を広めた聖マルガリタ・マリアは、聖刻を制定し、毎月第一金曜日に、地面にひれ伏して祈り、キリストの悲しみをわかちあいその日のうちに聖体拝領を行っていたと言われています。聖マルガリタ・マリアが第一金曜日に聖体拝領したように、イエスの聖心の信心は、9ヶ月連続で、毎月第一金曜日のミサに参加することです。以下は、前の述べた12の約束となります。(英語訳から、できるだけ英語のもつニュアンスで、翻訳したものです。教会公式翻訳を知りたい方は、こちらのいつくしみセンター公式センターをご覧ください

  1. わたしは彼らの人生に必要なすべての恵みをあたえる。
  2. わたしは彼らの家族に平和を与える。
  3. わたしは彼らのすべての悩みを慰める。
  4. 彼らはわたしの心の中に、生きている間も、特に死の間際で、確かな避難所を見出すであろう。
  5. わたしは、彼らがしているすべての活動に豊かな祝福を注ぐ。
  6. 罪人は私の心の中に、慈悲の(泉の)源と慈悲の無限の海を見出すであろう。
  7. 生ぬるい魂はあつくなる。
  8. 熱心な魂は、速やかに偉大な完成に至るであろう。
  9. 私は、私の聖心の姿が目にみえるところに掲げられ、尊ばれる家庭を祝福する。
  10. 私は司祭に、最も硬い心に触れる力を与える。
  11. この献身を広める者は、私の心にその名が記され、決して消えることはない。
  12. 連続して9ヶ月、最初の金曜日に聖体拝領するすべての者に、私の心の全能の愛は、彼らに最後の痛恨の恵みを与える。彼らは私の機嫌をそこない、秘跡を受けずに死ぬことはない。私の心は、最後の時に彼らの確実な避難場所となる。

12 Promises from the Sacred Heart of Jesus (catholicexchange.com) 

イエスの聖心に信心したJFKにあたえられた神の慈悲

アメリカのジョン・F・ケネディ大統領は、その悲劇的な死で有名です。しかし、彼の死に際にイエスの聖心の慈悲があったことは、ほとんど知られていないのではないでしょうか。ジョン・F・ケネディはカトリックの初代大統領ですが、スキャンダラスな彼の私生活知ると明らかなように、それほど敬虔なカトリック信者ではありませんでした。しかし、彼がまだ若かった頃、彼の母親は、イエスの聖心の献身である「9回の初金曜日の献身」の信心を行うようにさせていたと言われています。(12 Promises of the Sacred Heart of Jesus: Peace in Home and Life – YouTube)

1963年11月22日、ケネディ大統領が狙撃されました。彼は大急ぎで、近くの病院に運ばれました。そのケネディが運ばれた病院では、偶然にも、司祭が他の患者を見舞うためにいたのです。その司祭が偶然居合わせたことで、司祭は、瀕死のケネディに最後の秘跡を授けることができたのです。 (Could We Save JFK Today? | MedPage Today)

ケネディが病院に運ばれたとき、「大統領は無反応で、ゆっくりとした死戦期呼吸(心配停止直後にみられることがある呼吸)があり、触知できる脈や血圧もなかった」(Could We Save JFK Today? | MedPage Today)とあります。魂が肉体を離れるタイミングは、誰にも正確にはわかりません。しかし、私は、ケネディの魂はまだ肉体の中にあり、不思議な偶然によってイエスの聖心が約束した、最後の秘跡を受けることができたのではと思います。このような話を知るたびに、マザーTが書き留めた 「人の目には偶然でも、神の目には必然である 」という言葉を思い出します。

聖マルガリタ・マリア・アラコク:聖体のパンの中に隠されたイエス

 聖マルガリタ・マリアは、イエスの聖心を含む聖体パンを拝領することの重要性を強調しています。

「イエスは聖体の秘跡の中に見出されます。その秘跡の中で、イエスは愛によって生贄のように縛られ、父の栄光と私たちの救いのために常に犠牲となる用意ができているのです。イエスの生涯は、この世の目から完全に隠されているのです。彼らの目は、パンとぶどう酒の貧しく目立たない姿だけを見ることしかできないのです。イエスはつねに、祝福をされた聖体のなかに一人でおられます。私たちの敵である悪魔に大きな喜びを与えないよう、聖体パンの拝領をする機会を逃すことなく聖体拝領を行うようにしてください」-   聖マルガリタ・マリア・アラコク (See: MIRACLES-Mystics panels (santuariodesanjose.com))

聖体パンは、イエスの聖心を抜きにして語ることはできません。聖体パンはイエスの御身であり、心臓はその体の中心的で不可欠な部分であるからです。心臓がなければ、身体は生きることも、身体として機能することもできません。

6月には、多くの神秘的な祝祭日があります。聖体パンの祝日と聖心の祭日は、その中でも特に重要なものです。これらの祝祭日を祝うたびに、私はカトリック教徒であることをとても幸せに感じています。

Image: Two Angels with the Sacred Heart in Stained Glass

Source: The Anglican Breviary, Containing the Divine Office According to the General Usages of the Western Church, Put into English in Accordance with the Book of Common Prayer. New York, Frank Gavin Liturgical Foundation, Inc. 1955.

ご聖体の祝日:主イエス・キリストの至聖なる御身と御血

ご聖体の祝日おめでとうございます。

カトリックでは、今日(聖霊降臨後第2日曜日)は、主キリストの御身と御血であるご聖体(聖体パン)を祝う日です。私たちの地元の司祭の聖体降臨祭の説教の中では、カトリックとプロテスタントの主流派との間には、「教皇」と「ご聖体」という二つの大きな違いがあると指摘しています。私たちカトリックは、教皇は神が創った唯一無二の教会における、キリストの代理人であり、司祭によって聖別されたご聖体はイエスの御身であると信じているからです。

神からの啓示ではじまった聖体の祝日

リエージュのユリアナ(1192年頃-1258年4月)は、13世紀の修道女であり、神秘主義者でした。ユリアナは孤児で、5歳のころに修道院に預けられます。修道院での生活は、ユリアナにご聖体に対する特別な畏敬の念を、抱かせるようになります。

1208年、修道女ユリアナにイエスが現れ、ご聖体を祝うための新しい典礼の祝日を、請願するよう告げます。しかしユリアナは、その幻視をすぐには長上には打ち明けず秘密にしていました。その後20年間、同じ幻視が続き、彼女の告解を聞いた司祭によって、ようやくリエージュの司教に伝えられることとなります。ユリアナ自身もドミニコ会と司教に、ご聖体の祝日を願い手紙を送りました

1246年、ユリアナの手紙を受け取った司教は、リエージュの教区でご聖体の祝日を制定しました。同教区のジャック・パンタレオン助司祭は、この新しい祝祭を非常に感動的なものと感じ、正式な教会暦に加えることは極めて大切である、と考えました。

1264年、ジャック・パンタレオン助司祭はローマ教皇ウルバヌス4世(c. 1195 – 2 October 1264) となり、同年、ご聖体祝日の日を全教会の祝日として制定したのです。

ご聖体の祝日の典礼の作者:聖トマス・アクィナス(1225-1274)

ご聖体の祝日が制定されたとき、ウルバヌス4世はトマス・アクィナスに、新しい祝日の祈りとミサ典礼の作成を依頼しました。トマス・アクィナスが、この日のために書いた賛美歌のひとつ「アドロ・テ・デボーテ」には、メロディが与えられ、今日までご聖体の祝日のミサで歌い続けられています。

Adoro Te Devote, Sisters of Aquinas -Sisters of Aquinas

アドロ・テ・デボーテ(Adoro Te Devote)

パンとぶどう酒の形態のもとに隠れておられる神よ、謹んで御身を礼拝いたします。

御身を見つめながらも全く見通す力のない私は、心のすべてを委ねます。

今ここに、見るところ、触れるところ、味わうところでは、御身を認めることができません。ただ聞くところによってのみ確信します。

神の御子の言われたことは、何事であれ信じます。この真理の言葉にまさるまものは、世にないからです。

十字架上では神の本性だけが隠れていましたが、ここではその人性も隠されています。

主にある二つの本性を信じ、それを宣言し、悔い改めた盗賊の乞い願ったことを私もお願いします。

私はトマのように御傷を見なくても、御身が私の主であることを宣言します。

どうか、私がますます深く御身を信じ、御身に希望し、御身を愛することができますように。

主のご死去の記念として、人に命を与える生きたパン。

私の心を御身によって生かし、甘美な御身を常に味わわせてください。

優しいペリカン、主イエス、どうか、汚れた私を、御血をもって清めてください。

御血の一滴だけで、世のすべての罪を償うことのできる御方。

今は隠れていますイエス、乾き望むものをお与えください。

覆いを取られた御身の顔を見出し、御身の栄光を目にする幸いな者となりますように。アーメン。

St. Thomas Aquinas.  (出典:使徒聖ヨハネカトリック小金井教会)

ご聖体パンの神秘:実体変化

聖書の中で、イエスは「いのちのパン」であるご聖体について、ご自分の体と血であると語っています。使徒たちにとって、イエスの言葉は最初は理解しがたいものでした。そして復活後に初めて、イエスの言葉の意味を知ったのです。

ご聖体がキリストの御身(体)になる、と信じるのはカトリック教会と東方正教会の教えです。けれども、東方正教会の教えでは神の神秘は理解できない、とされています。では、西方教会、すなわちカトリック教会の教えでは、ご聖体の神秘はどのように説明されているのでしょうか。

イエスの御身であるご聖体

26一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 (マタイ26:26)

カトリック教会の教えでは、ミサで司祭が「これは私の体である」とキリストの言葉を語るとき、司祭の言葉を通して語っているのは、言葉であるキリストです。司祭が語ったその瞬間、神の言葉は司祭を通し実現されます。そして祭壇のパンはイエス・キリストの御身、御血、霊魂、神性になると信じられています。

この神秘は、神学者たちによって、議論されてきました。そして、アリストテレス哲学を用いて、「実体変化」と定義されてきました。この「実体変化」を理解するためには、アリストテレス的な 「実体」と 「偶性」というカテゴリーで考える必要があります。簡単に言うと、「実体」 はあるものが何であるかを示す名詞で、「偶性」はそのものを形容する形容詞となります。

祭壇のパンの場合、聖別前のパンは「薄く、白く、丸い、パン風味のパン」であると言えます。この場合の実体は名詞の「パン」であり、偶性は形容詞の「薄い、白い、丸い、パン風味」、その他パンを表現するのに使われる、あらゆる形容詞となります。実体変化とは、実体が変化することであり、偶性は変化しないということです。ですから、聖別後のパンは、「薄く、白く、丸く、パン風味のキリストの体 」となるのです。

この実体変化という神秘のおかげで、私たちがミサで口にするご聖体は、血のついた肉片ではない、ということになります。

命のパンで決して飢えない

35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)

キリスト教についてほとんど知らなかった私が、数ある教派の中でカトリックに強く惹かれたのは、カトリックの秘跡の一つである「ご聖体」でした。カトリック教会でご聖体拝領を受ける信者の姿を見て、ご聖体を受けたいと思うようになったからです。けれども洗礼を受けるために教会の聖書講座に通い始め、洗礼の準備に数ヶ月かかると知り、本当にがっかりしました。お腹が空いているのに、食べ物がないまま放置されたような気分になったからです。その後、洗礼を受け、ご聖体をさずかり、身も心も不思議と満たされたような気がしました。

それ以来、洗礼前のような飢えを感じることはなくなりましたが、パンデミックの時、教会が一般信徒のためのミサを祝わなくなり、以前感じていたような飢えを感じるようになりました。正直なところ、オンラインミサは、実際のミサに参加するより楽で喜んでいました。しかし、その時、言葉で説明するのが難しい飢えが戻ってきたのです。ご聖体の神秘に対する私の信仰は、当初は深いものではありませんでしたが、精神的な飢えを感じるようになったとき、ご聖体が私の心身をどれほど満たしてくれていたかを初めて実感したのです。

大切なご聖体を拝領するために

カトリックでは、ミサと聖体の重要性を強調しています。

聖 ピオは、「ミサがないよりは、太陽がない方が世界が存在しやすい 」と言うほど、ミサと聖餐式を愛していました。パドレ・ピオの例は、ご聖体がいかに重要であるかを示しています。数多くのカトリックの著者であるボブ・ロードとペニー・ロードはパドレ・ピオについて以下のように書いています。

「ピオ神父は…ご聖体における私たちの主イエスと生涯にわたって愛を育んでいたのです。彼にとって、ご聖体はすべての霊的恩恵の中心でした。それは魂の生命の息吹であったのです。… 司祭叙階後、彼はミサの奉献に長い時間をかけ、パンとぶどう酒が主イエスの御身と御血となるのを前に恍惚とした表情で時間を過ごすことに教区民から苦情が出るほどでした。」(Saint Padre Pio – devoted to the Eucharist and Mary

私たちはおそらく、ピオ神父のようにミサで主の受難を見ることはできませんが、彼の経験は、ミサが単なる儀式ではない、非常に大きな超自然的な出来事であることを教えてくれています。聖グレゴリウス1世もミサ中に、主の受難を目撃したと言われており、聖別された聖体パンが、イエスの体であることを明確に示すご聖体の奇跡は数多く存在しています。

私の教区の司祭は説教の中で、ご聖体を拝領する前に告解する必要性を強調しています。さらにご聖体に対する信仰の必要性については、「信じていないのなら、ご聖体を拝領してはいけない」と言われました。また、何世紀にもわたって行われてきたように、ご聖体を舌で受けることを推奨し、どうしても手で受けたいという人には「受けたらできるだけ早くご聖体拝領してください」と呼びかけました。最後に、ご聖体拝領の後に、感謝の祈りを捧げることを忘れないようにと、アドバイスしています。

ご聖体への祈りーパドレ・ピオ

パドレ・ピオはご聖体を拝領した後、感謝をささげ以下のように祈っています。

主よ、私と共にいてください。私は弱く、あなたのお力が必要です。

主よ、私と共にいてください。あなたは私の命であり、あなたがいなければ、私には意味も希望もありません。

主よ、私と共にいてください。あなたは私の光であり、あなたがいなければ、私は暗闇の中にいるのです。

主よ、私と共にいてください。あなたの意志をお見せください。

主よ、私と共にいてください。私があなたのお声を聞き、あなたに従うことができますように。

主よ、私と共にいてください。私はあなたをさらに愛し、いつもあなたと共にありたいと願うのです。

主よ、私と共にいてください、もし私がいつもあなたに忠実であることをお望みでしたら。

主よ、私と共にいてください。私の魂が貧しくとも、それがあなたの慰めの場となり、あなたの愛の住まいになるようにと願うからです。

イエスよ、私と共にいてください。日が暮れ、人生が過ぎ去ろうとしています。死と裁きと永遠が近づいています。途中で立ち止まることがないよう、私の力を新たにする必要があるのです。時が遅くなり、死が近づいています。ですから私には、あなたのお力が必要なのです。私は暗闇を恐れ、誘惑を恐れ、乾きを恐れ、十字架を恐れ、悲しみを恐れています。私のイエスよ、この流浪の夜に、私はどれほどあなたを必要としていることでしょう!

イエスよ、私と共にいてください。あらゆる危険を伴う人生の暗闇の中で、私はあなたを必要としているのです。

あなたの弟子たちがパンを裂くとき、そうであったように、私があなただと悟ることができますようお助けください。ご聖体拝領が闇を払いのける光となり、私を支える力となり、私の心の唯一の喜びとなりますように。

主よ、私と共にいてください。死の間際、私はあなたと一つになりたいのです。もし、ご聖体を拝領できないのなら、せめてあなたの愛と恩恵のなかにいさせてください。

イエスよ、私のそばにいてください。私は神の慰めを求めておりません。なぜなら私はそれに値しないからです。あなたが共に存在しておられるという贈り物だけを願うのです。そうです!私はあなたにこれを求めます。

主よ、私と共にいてください、私はあなたと、あなたの愛、あなたの恩恵、あなたの御意志、あなたの御心、あなたの霊だけを探し求めているからです。私はあなたを愛し、あなたをますます愛すること以外、いかなる報いも求めておりません。

私が地上にいる間、心を尽くしてあなたを愛し、永遠にあなたを完全に愛し続けることができますよう、お与えください、親愛なるイエスよ。

Padre Pio prayed this prayer after receiving Holy Communion from Aleteia より抜粋)

あなたの聖体の祝日と聖体の祝日の一週間が、神の恵みで満たされますように。

image: Eucharist, painting on the church altar

聖ジャンヌ・ダルク:オルレアンの乙女(1)

フランスの国民的英雄であるジャンヌ・ダルク(1412-1431年頃)は、1920年、ベネディクト15世によりカトリックの聖人として列聖されました。彼女の祭日は5月30日(地域によっては5月31日)です。ジャンヌのドラマチックな人生は何度も映画化、書籍化されていますから、彼女がどのようにフランスを救ったかを聞いたことがある人も多いでしょう。捕らえられ火刑に処さられてから約600年経ちましたが、ジャンヌは、今もなおフランスだけでなく世界中の人々を魅了し続けています。

ジャンヌの生きていた時代の歴史的背景

ジャンヌの時代のフランスは、強い政治的権力をもつ王のもとで急速に発展していました。けれども同じように王権の力が強化されたイギリスでは、エドワード3世が、母がカペー朝出身であるということを理由に王権を主張し、100年戦争(1337-1453)がはじまります。さらに、ブルゴーニュ公フィリップ3世とヴァロワ王シャルル7世は、100年戦争の間、フランス領土の支配権をめぐって争っていました。

ドムレミ村での生活:予知夢を見たジャンヌの父

ジャンヌがまだ幼い頃、父親はジャンヌに関する夢を見た。父親が見たのは、娘が軍隊と一緒に旅をしている姿だった。目が覚めたとき、彼は彼女の兄弟たちに、もしこんなことがあったら、彼女を溺死させるよう頼み、彼らが拒否したら自分がやる、と言った。(Mary Gordon, Joan of Arc: A Life)

ジャンヌ・ダルクは、おそらく1412年1月6日の公現祭に生まれたと思われます。父はフランス北東部のドムレミ村の農民であったジャック・ダルク、母はイザベル・ロメで、ジャンヌは敬虔なカトリック教徒として育てられます。彼女は自由時間のほとんどを、教会で過ごしていたそうです。またジャンヌの事を知る司祭が伝えたところによると、しばしば告解に来る少女だったそうです。(SAINT JOAN OF ARC

もし、ジャンヌが公現祭に生まれたとしたら、興味深い事実です。公現祭は、賢者が贈り物を携え、王であるキリストに捧げに行った日だからです。神の導きのもと、未来の王に謁見し、戴冠式に導くため、ドムレミ村を出てシノンに向かったジョアンの人生を象徴しているようです。父親の夢、そして彼女の生まれた日など、ジャンヌに関する不思議な神の導きは、すでに始まっていたようです。

不思議な声に導かれたジャンヌ

1425年、ジャンヌが13歳頃のことです。

ブルゴーニュとイギリスの軍隊がドムレミ村から家畜を追い払うと、教会を略奪し、焼き払いました。同じ年のある夏の日、ジャンヌは、家の庭ではじめて不思議な声を聞きます。はじめは恐れをいだいたジャンヌですが、後にその声は本物で、自分を導くために神が遣わしたものだと信るようになります。(SAINT JOAN OF ARC

ヨハネ14:21にわたしを愛する人は、わたしの父に愛される、とあります。ジャンヌの神への深い愛ゆえに、神は彼女に特別な恩恵を与えました。その恩恵とは、フランスに奇跡的な勝利をもたらす戦いに彼女が赴くことだったのです。

シャルル7世に謁見したときの不思議な逸話

1428年、ジャンヌは王太子(フランスの王位継承者)に謁見するために、地元の軍司令官ロベール・ド・ボードリクールに協力を求めました。彼女は、王太子をフランス王として即位させるという、神から受け取ったメッセージを伝えたいと考えていたからです。

はじめは相手にされなかったジャンヌですが、1429年2月12日のルーヴレイの戦い(ヘリングスの戦い)でフランス軍が敗北することを預言し、一部の高官から信頼を得ることに成功します。そしてついに、聖ミカエル、アレクサンドリアの聖カタリナ、アンティオキアの聖マルガリタから託された使命を果たすべため、フランス王太子シャルル7世にシノンで謁見を許されたのです。

当時、王太子は、戴冠式よりも戦いのほうが重要だとかんがえていました。その理由のひとつは、伝統的な戴冠式会場であるランスが敵地にあったからです。ジャンヌに会うことに気のすすまなかった王太子は、彼女に見つからないように廷臣の中に隠れていました。

ところが、思いがけないことが起こったのです。ジャンヌはすぐに、隠れている王太子を見つけだしたのです。そして臆することなく、王太子に戦いをやめてほしくないこと、主が助けを送ってくださること、王国は主のものであること、主は王太子が王になることを望んでおられることを告げました。さらに、オルレアンを解放し、王太子が戴冠するランスに進軍するという、神から与えられた自分の使命を明らかにしたのです。

神から託された使命を王太子に伝えたこの逸話からは、ジャンヌの信仰の強さが印象づけられます。この時代、女性が人前で発言できる数少ない機会のひとつが、神から与えられたメッセージを語るときでした。このような社会的背景を考えると、ジャンヌが本当に、神の声に従っていると信じていたことが理解できます。

ジャンヌの外見とは?

ジャンヌの時代、彼女のような庶民出身の人物が、画家により描かれる習慣はありませんでした。恐らく、そのような時代であったことも関係していたのでしょう。直接彼女に会った画家が描いた、ジャンヌの肖像画は残されていません。

私たちが知ることができる彼女の外見は、わずかに残された記述からのみです。ジャンヌの身長は約5.2フィート(約158Cm)で、首の短い筋肉質の頑丈な体をしており、髪は黒く短く切られ、真面目そうな黒っぽい色の大きな目に、日に焼けた肌をしていたと伝えられています。また、離れ気味の目をしていたともあります。

以下のビデオでは、歴史的記述を元にし、ジャンヌの姿を再現しています。

Joan of Arc Brought to Life| Her Story & Face Revealed | Royalty Now

シャルル7世の侍従長ド・ブーランヴィリエによると、ジャンヌは、重い鎧を着たまま、六昼夜過ごすことが出来るほどの体力があったそうです。彼女が、後世、ロマンチックに描かれたような娘ではなく、頑丈な農民の娘であったことがわかります。

ジャンヌと聖人たちとの共通点とは?

ジャンヌと彼女に現れた聖人たちと間には、偶然とは思えないような共通点が見られます。たとえば、アンティオキアの聖マルガリタは、男装して修道院に入った女性で、犯してもいない罪のために洞窟に幽閉された聖人です。ジャンヌも男装して魔女とみなされ、投獄されています。 メアリー・ゴードン著『ジョーン・オブ・アーク:ア・ライフ』の中で、三聖人が剣を持って表現されているように、ジャンヌは女性でありながら剣を取り、戦ったことに触れています。

1429年5月8日:神の名のもと勝利したオルレアンの戦い

1429年4月初旬、シャルル7世はジャンヌに軍の指揮を任せました。彼女は鎧と剣を手に入れると、イエスとマリアが描かれた旗を作らせます。そして、パリから南西に74マイル離れた城壁都市オルレアンに向けて出発しました。

The Siege of Orléans | Joan of Arc | Jeanne-darc.info

このとき、オルレアンの軍司令官であるデュノワ公は、戦闘経験のないジャンヌに助言を与えていました。しかし彼女は、主の助言は彼よりも安全で賢明であり、聖ルイと聖シャルルマーニュの取次により、主はオルレアンを悲惨と抑圧から解放してくださると説きます。

さらにジャンヌは、反対する軍隊の隊長たちを説得し、神の導きに従ってトゥーレル砦を攻撃しました。この戦いでジャンヌは傷を負いながらも、大勝利を収めます。実は、彼女は自分が戦場で負傷することを事前に予見していたことが記されてます。それにもかかわらず、迷うことなく戦場に向かったのです。

橋が落ちることを予見していたジャンヌ

「勇気を持って!後退するな。もう少しで、その場所はあなたのものになる。見ていなさい!風が私の旗を防波堤に吹き付けるとき、あなたはそれを手にするのだから!」オルレアンの橋の攻防で、共に戦う兵士たちにジャンヌが言った言葉です。(In her own words | Joan of Arc | Jeanne-darc.info)

橋の襲撃の際、彼女は、壊れた石橋の隙間に架けられていた仮設の木橋が長くはもたないことを予見していました。ジャンヌは、彼らへ戦いを挑むため、その木橋を渡ろうとしていたイギリス軍に止まるよう警告しています。しかし、イギリス軍は彼女の忠告を誤解し、ジャンヌたちが自分たちを恐れていると勘違いしました。彼らは前進を続け、木製の橋はイギリス軍の重さに耐え切れず落下し、重い鎧を着ていた彼らは溺死してしまったのです。言うまでもなく、イギリスにとってこの不幸な出来事は、フランス軍を優位に立たせることになります。 (この戦いについては、こちらのビデオで詳しく解説しています。)

そしてついに、フランス軍はオルレアンの奪還に成功します。この勝利は、フランスにとって100年戦争の大きな転機となりました。それ以来、彼女は 「オルレアンの乙女 」として知られるようになったのです。

ジャンヌ最愛の旗

ジャンヌは戦場で戦うより、兵士を鼓舞するために旗を持っていたようです。旗は、戦場の混乱の中で、味方の兵士を結集させるためにも重要でした。

1431年の裁判では、ジャンヌの旗に関する記述が残っています。

「私には旗があり、それを戦場で掲げていました。その旗には百合の絵が描かれていました。そこには世界を抱くキリストの姿があり、キリストの両脇には天使がおかれていました。ブカサンと呼ばれる白い布で、その上にはイエズス・マリアと書かれ、私にはそう(書かれているように)見えたのですが、そしてそれは絹で縁取られていました。」(Banner | Joan of Arc | Joan-darc.info).

ジャンヌは剣よりも、イエスとマリアが描かれたこの旗を気に入っていたと伝えられています。残念ながらこの旗は、フランス革命の際の火事で焼失しています。

聖ジャンヌの神への熱烈な信仰

10恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。
たじろぐな、わたしはあなたの神。
勢いを与えてあなたを助け
わたしの救いの右の手であなたを支える。

11見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆
恥を受け、辱められ
争う者は滅ぼされ、無に等しくなる。

12争いを仕掛ける者は捜しても見いだせず
戦いを挑む者は無に帰し、むなしくなる。

— イザヤ 41:10-12      

神によってもたらされた彼女の功績は、イザヤ書の記述のようです。これまで私は、イザヤ 41:10-12  の語る内容は、男性にふさわしいような印象を受けていました。ジャンヌの功績を知ると、男性だから、女性だからという性の限界は幻想のように感じさせられます。

メアリー・ゴードン著『ジョーン・オブ・アーク:ア・ライフ』によると、ジャンヌと出会った人々は、それまでできなかったことができるようになり、自分が変化したと感じたといわれています。彼女の強い信仰心と熱意、そして神への絶大な信頼は、周囲の人々を鼓舞し、恐怖から解放したのではないでしょうか。

いずれにしろジャンヌは、最終的に、神の栄光という勝利を手にします。彼女を裏切り、処刑人のもとに送り込んだ人々は滅びましたが、ジャンヌは聖女ジャンヌとなり、今日も人々にインスピレーションを与え続けているからです。

1429年6月18日:パテーの戦い

オルレアンの戦いで勝利を収めたジャンヌは、すぐに王太子に勝利を報告すると戴冠式を行うよう促しました。しかし、伝統的な戴冠式の場所であるランスに到着するためには、パテーでイングランド軍を撃破する必要があったのです。ジャンヌは、ここでもフランス軍の大勝利を約束しています。そして、その言葉通り、パテーの戦いはフランスの圧倒的な勝利で幕を閉じたのです。

一方、ジャンヌはこの悲惨な戦争の現実を目の当たりにし、衝撃を受けました。ジャンヌが戦場で瀕死のイギリス兵の頭を抱え、死に際の告解を聞いたという話は、この事実を実証する逸話として後世に語り継がれています。

パテーの戦いで起きた幸運

戦いに勝利するきっかけとなった出来事は、森から突然鹿が飛びだしたことでした。イギリス兵が歓声を上げ、彼らの場所を知ったフランス軍が、奇襲攻撃で長弓隊を撃退できたからです。

当時のイギリス軍の戦力であった長弓隊は、フランス軍に甚大な被害をもたらしていました。ジャンヌの時代には、人々の記憶に新しかったはずの1415年のアジンコートの戦い(アジャンクールの戦い)では、数でも装備でもはるかに優勢であったはずのフランス軍が、ヘンリー5世の機知に富んだ戦略と長弓隊の激しい攻撃になすすべもなく敗北しています。

アジンコートの戦いで、兵を森に隠したヘンリー5世は、「どんな状況でも音を立てるな 」と軍に命じています。もしパテーの戦いで兵が声を上げなければ、イギリス軍は成功する可能性が高かったでしょう。当時のイギリス軍の強さを知れば、神の助けがなければ、フランス軍が戦いに勝利することは難しかったと考えることができるからです。一方、オルレアンの戦いが神の介入としか思えない不思議な出来事ばかりであるのに対し、パテーの戦いはそのようなことはなかったといえます。

パテーの戦いにおいて、フランス軍の勝利は、聖ジャンヌの祈りに応えた神の介入によるものなのか、フランス軍の戦略と武力によるものなのか、単なる偶然の産物なのか、それぞれの貢献度を正確に測ることができるのは、神のみだと言えます。

ロワール渓谷におけるジョアンとその部下たちの作戦:
6月10日にジャルジョーを占領、13日にオルレアンに再突入、15日にムングの橋を占領し、16日にボーガンシーを占領。そしてパタイでの輝かしい勝利で幕を閉じました。

Image: The Maid by Frank Craig

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