コーションが言い渡した無期限の禁固刑は、第13代ウォリック伯爵(Warwick)に怒りをいだかせました。彼女のせいで作戦に失敗した彼は、ジャンヌの処刑を願っていたからです。その様子をみていた判事の一人は、’ Do not fear, my lord,’ he said; ‘you will catch her yet.’「あなたはまだ彼女を捕まえられるでしょう」と心配に及ばないことを伝えています。(p235,)
Latin: OClavis David,et sceptrum domus Israel; qui aperis, et nemo claudit; claudis, et nemo aperit: veni, eteduc vinctum de domo carceris, sedentem in tenebris et umbra mortis.
Source: One version of the Chaplet of Seven Sorrows can be found at number 383 of the Pre-Vatican II “Raccoltà” or Manual of Indulgences (Sacra Paenitentiaria Apostolica. Enchiridion Indulgentiarum… Typis Polyglottis Vaticanis MCML: Versio Anglica. New York, Benziger Brothers. 1957.)
借りたい本を何冊か取り出していると、目立たないところに赤い背表紙と中世風の女性の絵が描かれた本が目に入りました。手にとりよく見てみると、小さな字でセイント・ルーシーとあります。背表紙の女性は聖ルーシー(ルチア)で、私の守護聖人の一人です。興味をそそられた私は、『My Nameday-come for Dessert』(ヘレン・マクローリン著)というタイトルの、その本を開いてみました。
この短くも美しい歌は、ゲール語から英語に翻訳され、「Oh Mary of Graces ーああ、恩恵のマリアよ」と呼ばれています。原曲の静かな旋律は、心にしみる哀愁があります。私はこの曲に悲劇に見舞われた人が、聖母に祈りを捧げているような印象をいだきました。と同時に、自分の不幸を嘆くのではなく、祈りによって乗り越えようとする人の強さも感じます。
ランスに向かう途中、シャロンの近くで、ジャンヌはドムレミ村からやってきた友人たちと会いました。彼らとつかの間の楽しい時間を過ごしたジャンヌは、赤いドレスを贈られました。そこでジャンヌは、彼女を待ち受ける悲劇的な運命を予感させるような言葉を口にしています。彼女は二人の旧友に、将来への唯一の不安は裏切りであることを告げたのです。(Gower, Ronald Sutherland, Lord, Joan of Arc. 1893.)
ラニーにいた兵士たち、フランス軍の援軍、そしてジャンヌたちの努力のおかげで、アラスのフランケは捕らえられ、彼の部下たちは殺されるか捕虜となりました。フランケはその後、ジャンヌが欲しがっていた捕虜と交換されるはずでしたが、その捕虜はすでに死んでいたことが判明します。さらに、アラスのフランケは略奪だけでなく、殺人の罪も犯していたことが裁判で明らかになりました。彼をどうするかと問われたジャンヌは、部下たちに「正義が求めるままに、この男をしなさい」と告げたと言われています。(The Battle of Jargeau 12 Jun 1429 (jeanne-darc.info)
アメリカのジョン・F・ケネディ大統領は、その悲劇的な死で有名です。しかし、彼の死に際にイエスの聖心の慈悲があったことは、ほとんど知られていないのではないでしょうか。ジョン・F・ケネディはカトリックの初代大統領ですが、スキャンダラスな彼の私生活知ると明らかなように、それほど敬虔なカトリック信者ではありませんでした。しかし、彼がまだ若かった頃、彼の母親は、イエスの聖心の献身である「9回の初金曜日の献身」の信心を行うようにさせていたと言われています。(12 Promises of the Sacred Heart of Jesus: Peace in Home and Life – YouTube)
1963年11月22日、ケネディ大統領が狙撃されました。彼は大急ぎで、近くの病院に運ばれました。そのケネディが運ばれた病院では、偶然にも、司祭が他の患者を見舞うためにいたのです。その司祭が偶然居合わせたことで、司祭は、瀕死のケネディに最後の秘跡を授けることができたのです。 (Could We Save JFK Today? | MedPage Today)
ケネディが病院に運ばれたとき、「大統領は無反応で、ゆっくりとした死戦期呼吸(心配停止直後にみられることがある呼吸)があり、触知できる脈や血圧もなかった」(Could We Save JFK Today? | MedPage Today)とあります。魂が肉体を離れるタイミングは、誰にも正確にはわかりません。しかし、私は、ケネディの魂はまだ肉体の中にあり、不思議な偶然によってイエスの聖心が約束した、最後の秘跡を受けることができたのではと思います。このような話を知るたびに、マザーTが書き留めた 「人の目には偶然でも、神の目には必然である 」という言葉を思い出します。
Source: The Anglican Breviary, Containing the Divine Office According to the General Usages of the Western Church, Put into English in Accordance with the Book of Common Prayer. New York, Frank Gavin Liturgical Foundation, Inc. 1955.
「ピオ神父は…ご聖体における私たちの主イエスと生涯にわたって愛を育んでいたのです。彼にとって、ご聖体はすべての霊的恩恵の中心でした。それは魂の生命の息吹であったのです。… 司祭叙階後、彼はミサの奉献に長い時間をかけ、パンとぶどう酒が主イエスの御身と御血となるのを前に恍惚とした表情で時間を過ごすことに教区民から苦情が出るほどでした。」(Saint Padre Pio – devoted to the Eucharist and Mary)
ジャンヌがまだ幼い頃、父親はジャンヌに関する夢を見た。父親が見たのは、娘が軍隊と一緒に旅をしている姿だった。目が覚めたとき、彼は彼女の兄弟たちに、もしこんなことがあったら、彼女を溺死させるよう頼み、彼らが拒否したら自分がやる、と言った。(Mary Gordon, Joan of Arc: A Life)
ジャンヌ・ダルクは、おそらく1412年1月6日の公現祭に生まれたと思われます。父はフランス北東部のドムレミ村の農民であったジャック・ダルク、母はイザベル・ロメで、ジャンヌは敬虔なカトリック教徒として育てられます。彼女は自由時間のほとんどを、教会で過ごしていたそうです。またジャンヌの事を知る司祭が伝えたところによると、しばしば告解に来る少女だったそうです。(SAINT JOAN OF ARC)
ブルゴーニュとイギリスの軍隊がドムレミ村から家畜を追い払うと、教会を略奪し、焼き払いました。同じ年のある夏の日、ジャンヌは、家の庭ではじめて不思議な声を聞きます。はじめは恐れをいだいたジャンヌですが、後にその声は本物で、自分を導くために神が遣わしたものだと信るようになります。(SAINT JOAN OF ARC)
「私には旗があり、それを戦場で掲げていました。その旗には百合の絵が描かれていました。そこには世界を抱くキリストの姿があり、キリストの両脇には天使がおかれていました。ブカサンと呼ばれる白い布で、その上にはイエズス・マリアと書かれ、私にはそう(書かれているように)見えたのですが、そしてそれは絹で縁取られていました。」(Banner | Joan of Arc | Joan-darc.info).