聖霊降臨祭おめでとうございます!

聖霊のお祝いであるペンテコステ(聖霊降臨祭)が始まりました。聖霊は、風、火、鳩に象徴されます。ペンテコステでは、聖霊が、私たちに祝福をもたらしてくださるよう祈ります。

中世ヨーロッパでは、聖霊降臨の1週間をリラックスして過ごし、ペンテコステを祝ったと、司祭の説教で知りました。現在でも、多くのカトリック国では、ペンテコステ翌日(ホイット・マンデー)は国民の休日となっています。今年は偶然にも、アメリカでもペンテコステの翌日が、メモリアルデーなので、こちらもホイット・マンデーが祝日となります。

教会のはじまりと聖霊の異言

紀元33年ののペンテコステは、教会が始まった日です。集まった使徒たちに聖霊が恵みを与え、神が認める唯一の教会であるカトリック教会が誕生した日です。

Factus est repente (Gregorian Chant) (Chorał gregoriański)

1五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 4すると、一同は聖霊に満たされ「霊」が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒2:1-4)

聖霊の恩恵は、火の舌で象徴され、外国語でも一瞬にして話せ、理解できるようになったとあります。この時、使徒たちが奇跡により話した言語は、その場にいたその言語を母国語とする人々に理解されたのです。

ペンテコステで聖霊が降臨した後も、異言を話す習慣(ギリシャ語では「グロッソラリア」)は、初代教会のある場所で続いていました。聖パウロはⅠコリント14章で、この話題についてふれています。

初代教会におけるグロッソラリアという現象が、具体的にどのようなものであったかは、現在では確かなことは分かっていません。ある人は、このような場合に話された言語は、神と天使以外にはまったく理解できないと考え、またある人は、異言の話者が、学んでいない外国語で話したが、それを聞いた他の人はそれを認識できたと考えています。おそらく、どちらか一方のケースである場合もあり、もう一方の別のケースだった場合もあったのではないでしょうか。

聖霊の7つの賜物

伝承によれば、聖霊には7つの賜物があります。以下はイザヤ書11章1~3節からの引用です。

聖霊の7つの賜物

1イエッサイの株からひとつの芽が萌えいで

その根からひとつの若枝が育ち

2その上に主の霊がとどまる。

知恵と識別の霊

思慮と勇気の霊

主を知り、畏れ敬う霊。

3彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。

目に見えるところによって裁きを行わず

耳にするところによって弁護することはない。

(イザヤ 11:1-3)

つまり、聖霊の7つの賜物とは—

  1. 知恵
  2. 識別(理解)
  3. 思慮(良いアドバイスを伝える、受け入れる)
  4. 勇気( 不屈の精神)
  5. 知識
  6. 敬虔さ
  7. 主への畏れ

イエッサイとはダビデの父で、ユダヤ人の最後の王であるイエス・キリストを含め、すべてのユダヤ人の王は彼の子孫です。「その上に主の霊がとどまる」とは、イエッサイの子孫は聖霊の祝福を受けるという意味です。

このイザヤの預言はイエスの洗礼(マタイ3:16)で、成就されています。

「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」

聖霊と赤いバラの花びら

Climbing the Pantheon’s Dome on Pentecost – EWTN Vaticano

ペンテコステでは、ミサの際、信徒への手紙と福音の間に「ベニ・サンクテ・スピリトゥスー聖霊きてください」を歌唱しますが、その時に、教会の天井からバラの花びらを撒くという伝統的な習慣があります。このバラの花びらで祝う方法が、いつから始まったのかは不明ですが、聖書に登場する「火の舌」を象徴していると言われています

歴史と品格を備えたサンタマリア・アド・マティレス(=ローマのパンテオン)では、優美なミサにあずかることができる日です。サンクタ・マリア・アド・マルティレスでは、バラの花びらがペンテコステの象徴的な色であることから、毎年、聖霊降臨の日に人々は天井からバラの花びらを撒いています。空から降ってくる赤いバラの花びらは、何とも言えない美しさがあります。サンタマリア・アド・マティレスは、ペンテコステの日に、一度はミサにあずかってみたい場所です。

聖霊がもたらす平和と自由: 聖ホセマリア・エスクリバー

こちらの記事 (The secret to spiritual freedom and peace, according to St. Josemaria Escriva –Aleteia)でも解説していますが、オプス・デイの創設者である聖ホセマリア・エスクリバーは、神の愛のために自分を否定し、あらゆる利己主義と誤った安心から自分を切り離してこそ、平和と自由を経験できると説きました。この体験は、キリストが私たちのために勝ち取った恩恵であり、聖霊によって私たちに与えられる、と語っています。

記事の著者はさらに、「次に座って祈るとき、霊的自由から自分を遠ざけているものは何か、あなたが待ち望んでいる平安を見つけるためには、どんなことを『否定』する必要があるのかを考えてみてください 」と問いかけています

これは、私にとって耳の痛い言葉です。自分の生活を振り返ってみると、自分の意志、言葉、行いが神様の意志にそぐわないことがよくあるのです。特に、自分自身を捨てることは、難しいと感じています。

聖霊は思いのままに吹く

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ3:8)

この聖書の言葉を読むと、いつも、聖霊が与えてくれる自由の素晴らしさを想像します。聖霊の恵みにより、この世の執着から解放され、霊的な自由を生きることができれば、そこには、風が吹き抜けるような爽快感があるのだろう、と感じるからです。

世俗への執着から解放され、自由な精神で生きることができるよう、聖霊の恵みを祈りたいと思います。

聖霊の週が、恵みに満ちたものでありますように。

image: The dove of the Holy Spirit-stained glass by Gian Lorenzo Bernini in 1660 in the apse inside St. Peter s basilica in Rome

ベネディクトの不在、ベネディクト16世の就任記念日(1)

2023年4月19日、ニュー・リトゥジカル・ムーブメントは前教皇ベネディクト16世を偲び、次のように掲載していました。(グレゴリー・ディピッポ氏の記事より)

本日は2005年、ベネディクト16世が教皇に選出されて以来、初めて、ベネディクト16世がこの世にいないまま迎える彼の記念日であり、彼の永遠の眠りのために祈りを捧げるのに良い日である。

Deus, qui inter summos sacerdótes fámulum tuum Benedictum ineffábili tua dispositióne connumerári voluisti: praesta, quáesumus; ut, qui Unigéniti Filii tui vices in terris gerébat, sanctórum tuórum Pontíficum consortio perpétuo aggregétur. Per eundem Christum, Dóminum nostrum. Amen.

(翻訳)神よ、あなたのはかり知れない神の摂理におき、あなたの僕ベネディクトが教皇の一人に数えられることをご意志された神よ、地上において、(1)あなたの独り子の座にあった彼が、あなたの聖なる教皇たちの交わりに永遠に加わることができますよう、あなたに懇願いたします。私たちの主である同じ(上で述べた)キリストを通して。アーメン。

(1)あなたの独り子の座-教皇は神の代理人であるため

ベネディクト16世の辞任について

2013年2月28日に教皇職を辞任したベネディクト16世は、名誉教皇としてバチカンに留まり、2022年12月31日に95歳で永遠の報酬に帰天しました。したがって、今年はベネディクト16世がローマ教皇に就任して以来、初めてのベネディクト16世がバチカンに不在である年となります。

不在であることをわざわざ述べるのは、ベネディクト16世の突然の辞任後も、保守派や伝統主義者の間で、ベネディクト16世がまだ、教皇であるかもしれないと考えられていたからです。正式発表は辞任でしたが、実は辞任していない、という説があるのです。ですから、ベネディクト16世が教皇であった、と考える人々にとっては、現在は「教皇不在」の状態となります。

伝統派、保守派に人気のベネディクト16世

ベネディクト16世は教会歴史上、最も長命であった教皇の一人です。多言語に優れた教皇でもあり、教会ラテン語だけでなく、古代ギリシャ語や古典ヘブライ語も読むことができました。ベネディクト16世はラテン語に精通していたためか、伝統的なラテン語ミサの重要性を理解し、モツ・プロプリオ・スンモルム・ポンティフィクム(教皇の発布した書簡の種類)でそれを守り、奨励しました。また、ベネディクト16世は、多くの貴重な書籍を私たちに残してくれました。

ベネディクト16世の突然の辞任は、文字通りカトリック教会と信徒に激震を与えました。心の準備が十分でなかった信徒が、彼に辞任をしてほしくないと思うのも当然です。それでは、辞任劇の後も、ベネディクト16世が教皇であると信じた信徒がいたのは、単に感傷的な理由からだったのでしょうか。

実は、その理由はそれほど単純なものではありません。カトリックに詳しくない部外者には、ベルゴリオ(フランシスコ教皇)枢機卿が、現ローマ教皇であることは間違いないように思えるはずです。保守派、伝統派がベネディクト16世が教皇である、というような結論に至った大きな理由の一つは、カトリック教義や教会法などの観点から、ベネディクト16世の「名誉教皇」としての地位が不明確な部分が多いからです。

ベネディクト16世はなぜ辞任したのか?

まず、突然の辞任の理由です。
ベネディクト16世の辞任には、公にできない理由があったのではないか、と思わせる要素がいくつもあることは無視できない事実です。一方で、ベネディクト16世の辞任理由に関するさまざまな憶測は、いずれも推測の域を出ていないと言えます。

バチカン市国建国記念日に発表されたベネディクト16世の辞任

まず、2月11日にベネディクト16世の辞任が正式に公示されました。声明文には「高齢のため、教皇職を完全に行使するには、私の体力はもはや適切ではないと考えるに至った 」と書かれています。

2月11日は、1929年のラテラン条約で、バチカンが独立国家として承認された日です。つまり、中立不可侵の教皇を絶対君主とするバチカン市国が成立した日なのです。その様な大切な日に、ベネディクト16世が辞任を(させられた?)発表したのは偶然なのでしょうか。

私は、この日が選ばれたのは偶然ではないと考えます。ローマ教皇のバチカン市国の絶対君主としての(理論上の)権力が、覆されたかのような印象を受けるからです。もしそのようなことがあったのだとすると、バチカン銀行スキャンダルに関係していた何者かが、教皇を王とするバチカン市国に勝利した日、ということになります。

バチカン銀行スキャンダルとベネディクト16世

権力と腐敗は表裏一体ですが、バチカンも例外ではありません。ベネディクト16世は、犯罪組織との関係が噂されるバチカン銀行の改革を試みた最初の教皇でした。バチカン銀行は、教皇ヨハネ・パウロ1世の謎の死、マフィア、フリーメーソン説など、暗い噂が絶えません。そのため、ベネディクト16世の改革が疎ましいと思う人物、組織によって改革が停滞したと考える人も多いのです。

また、バチカン銀行スキャンダルにおいて調査されるべきであった資金洗浄、犯罪組織との関係、使途不明金などの疑惑は、いずれもきちんと調査されていない、あるいは調査されてもその結果が明らかにされることはありませんでした。以下は、2013年12月6日のフィナンシャル・タイムズ、リチャード・サンダーソン氏の記事から要約した、複雑でわかりにくい事件の概要です。

バチカン銀行との取引を停止

事の発端は、ユーロ危機を受け、EUの銀行調査機関がバチカンと取引のあった、ドイツ銀行、JPモルガン(ドイツ支店)、ウニクレジット銀行(イタリア支店)等の調査を決定したことです。

調査が入る、と知った調査対象の欧州の銀行は、バチカン銀行と取引ができなくなる可能性を、バチカンに警告したと伝えられています。その後、資金洗浄が疑われたウニクレディト銀行は、バチカン銀行との取引を停止した最初の大手金融機関となりました。

EUの調査員達は、直接バチカン銀行を調査できないため、バチカンと取引のあるいくつかのEU銀行にも圧力をかけました。バチカン市国は独立国家であり、EUに加盟していないため、直接調査することがができなかったためです。

ベネディクト16世の対処

この状況を改善するため、2009年、ベネディクト16世はバチカン銀行の新しいトップとして、イタリア人のエットーレ・ゴッティ・テレスキー氏を任命しました。また、マネー・バール(資金洗浄調査委員会)を招き、バチカン銀行を調査させることとします。

テレスキー氏はイタリアの銀行界から人望を集めていましたが、多くの枢機卿とは上手くいきませんでした。2012年5月、バチカン銀行取締役が彼を追放し、資金洗浄疑惑で彼を告発。その後イタリア政府がテレスキー氏を取り調べますが、無罪と判定、彼が罪に問われることはありませんでした。

2012年3月、ドイツJPモルガンがバチカンとの取引から手を引きます。

招待されたマネー・バールの調査結果、バチカン銀行の評価は16段階中の9でした。

バチカンATMの停止とベネディクト16世の突然の辞任

そして、2013年1月1日、バチカンのATMは停止してしまいます。これは、イタリア銀行がバチカンATMの運営権を持つ、ドイツ銀行に圧力をかけたために起こったことです。イタリア銀行はドイツ銀行に書簡を送り、「バチカン銀行は国際法を遵守していない。ドイツ銀行はバチカン銀行に協力することにより、違法行為を行っているのではないか」と問い詰めたからです。この状況に危機感を抱いたドイツ銀行は、バチカンATMの運用停止を決定したのです。

この問題を解決するため、ベネディクト16世は、ドイツ人のエルンスト・フォン・フライベルクを銀行の新しいトップに、さらに、スイス人のレネ・ブリュエルハルトをバチカン財務監督官に任命しました。ブリュエルハート氏は、EUとは無関係のスイスの銀行であるアドゥーノ・グループにATMの運用を依頼しました。そして、2月11日、ベネディクト16世が突然、辞任を表明したのです。翌2月12日、アドゥーノ・グループの契約が成立し、ATMは再び機能するようになりました。

スイスの銀行は、機密性が非常に高いことで知られています。現在に至るまでバチカンATMの運用兼を握るのは、EUの手の及ばないスイスです。また、バチカンの銀行長には2014年7月9日にフランス人、ジャン・バプディスト・ドゥ・フランス氏が、フランシスコ教皇により任命され、現在に至っています。

ベネディクト16世、神秘的な体験の末に退任を決意?

2013年8月21日付のガーディアン紙の記事によると、ベネディクト16世は神秘的な体験をした後、祈りに人生を捧げることを決意し、退任を決めたとありました。ガーディアン紙によると、このニュースを報じたのはゼニット(Zenit)通信社ということです。情報源とされたゼニットですが、2020年12月に、一時、業務を停止していました。現在は営業を再開しているようですが、その情報源とされる記事を見つけることはできませんでした。

ベネディクト16世が、神秘的体験をしたことにより退任とのニュースをCAN(カトリック・ニュース・エージェンシー)が、2013年8月27日の記事で否定しています。CANによると、8月25日、イタリアのテレビ局Tg5のインタビューで、退任したベネディクト16世の個人秘書ゲオルク・ゲンスヴァイン大司教は「この記事はアルファからオメガに至るまで捏造されたものだ」と述べたことが引用されています。

ゲンスヴァイン大司教やCNAと比較すると、匿名の情報源や消えたゼニットの記事等は、ほとんど信用に値しないということです。ベネディクト16世の 「神秘体験 」の話は、おそらく作り話以外の何物でもないのです。

image of Benedict XVI from Turn back to God

復活した主イエス・キリスト: 魂の救済者 (2)

復活したキリストの墓と言われる場所は、エルサレムにある聖墳墓教会(せいふんぼきょうかい)とされています。この教会はどのようにして誕生したのでしょうか。

聖ヘレナが巡礼したキリストの墓

コンスタンティヌス帝(在位:306-337年)の母ヘレナがエルサレムに巡礼に行き、エルサレムの住民に、キリストの墓はどこにあるのか、と尋ねたという話があります。ヘレナに尋ねられた住民は、ローマ帝国のあるヴィーナス神殿にヘレナを案内しました。その下にイエスが葬られた場所があるという伝承があったためです。しかし、そこは異教の神殿であったため、キリスト教徒もユダヤ教徒も立ち入ることはできませんでした。なぜなら、コンスタンティヌス帝が改宗する以前、ローマ皇帝はキリスト教徒ではなく異教徒だったからです。ローマ人がキリストの墓の上に異教の神殿を建てたのは、キリスト教徒がそこで礼拝するのを防ぐためだったと思われていました。この事実を知ったコンスタンティヌス帝は、異教徒の神殿を破壊するよう命じました。そして、その後、その場所に立派な教会を建てさせました。ヘレナはこの時、主の十字架の跡も見つけたという伝説もあります。

4世紀の教会史家エウセビオスは、ヘレナが聖地を巡礼し、キリストの誕生、昇天、復活の地に教会を建てたと記しています。しかし、それ以外では、何が起こったのか明らかではありません。けれども今日に至るまで、世界中から巡礼者が訪れるこの場所は、イエスが死からよみがえった場所として信仰の対象となっています。

マグダラのマリア: 復活したイエスを最初に見た人物

Christ Appearing to Mary Magdalene, ‘Noli me tangere’
Rembrandt

マグダラのマリアは、復活したイエスを最初に見た人物です。空っぽになった墓を見、復活した主との出会いは、ヨハネによる福音書第20章1-18節に記されています。

私が参加したイースターのミサでは、司祭が、疑うトマスとマグダラのマリアの例えを用い、信仰について語りました。復活したイエスがマリアに話しかけたとき、マリアは迷うことなく「ラボニ(先生)」(ヨハネ 20:16)と答えました。一方トマスは、イエスの傷跡に手を触れるまでは信じないと明言していました。司祭は、現代人にとって、マグダラのマリアよりもトマスの反応の方が理解しやすいと述べています。

私は、マグダラのマリアの信仰にいつも感心しています。マグダラのマリアは、復活したイエスに触れもせず、イエスが肉体的に復活したことを全く疑わず、言われたとおりにすぐに他の弟子たちに復活を知らせに行ったからです。私は聖書の物語を知っていても、復活の科学的根拠を知りたくなるからです。

司祭の話す「見ずに信じる人は幸いである」(ヨハネ 20: 29)を聞きながら、見えるもの、言い換えれば、この世のものにしか注意を向けていない自分に、改めて気づきました。見えるものではなく見えていない神を信じられる人、そのような人になれるようにもっと祈ろう、と感じています。

復活祭洗礼

私の教会では、復活祭に七人の人が洗礼を授かりました。年齢も若い方から年配の方までと、様々でした。彼らはとても幸せそうで、明るく輝いていました。復活祭は象徴的にも、洗礼とぴったりですから、彼らの洗礼は一生の思い出になると思います。

洗礼を受けたとき、私は彼らと同じように幸せな気持ちになりました。心も体も軽くなり、新しく生まれ変わったような気がしました。それだけでなく、それまで感じていた慢性的な憂鬱感や人生に対する失望感がなくなったのです。

本当の理由は分かりませんが、洗礼を受ける以前、私の魂は霊的に死んでいたのだと思います。しかし洗礼によって、私はキリストの命によって生き返ったのだと思います。今でも、落ち込むことはありますが、以前感じていたような、心の闇が全くなくなりました。悲しくても、心が安らぐことができるのです。

奇跡について、W.ウィルマース師は『キリスト教宗教ハンドブック』(ベンジンガー、1891年)の中で次のように説明しています(p. 18)。「神が奇跡を起こすことができるなら、宇宙の主である神が奇跡を通して我々に語ろうと望むなら、神はまた状況をうまく調整し、我々の心に影響を与え、多くの場合、奇跡が起こったことを確実に知ることができる」と書かれています。洗礼を授かった後、魂が復活したかのような感覚は私にとり、そのような奇跡の経験だったのです。

Image: Christ`s tomb, in the Old City of Jerusalem, Israel

復活した主イエス・キリスト: イエスは十字架で死んだのか? (1)

喜びの日、主の復活祭、皆様に沢山の幸福がありますように!

四旬節が終わると、キリスト教徒にとって最も重要な祝祭日がやってきます。復活祭です。
聖なる三連休と復活祭の典礼は、私たちの主イエス・キリストの受難、十字架刑、死、そして復活を祝うものです。

神の神秘、復活

すべての典礼は重要ですが、復活祭は、そのなかでもキリスト教徒にとり特別です。私たちは、主イエス・キリストの復活による魂の救済を信じるからです。私は洗礼に備え、キリスト教を学び始めるまで、復活祭についてほとんど知りませんでした。おそらく、多くのキリスト教徒でない人々にとり(かつての私もそうでした)、イースターエッグとイースターバニーが登場する日に過ぎないでしょう。常識で考えると、起こるはずがない死んだ人間の復活。そんなことを信じられる人がいるのでしょうか

イエス・キリストが神であり、神が全能であると信じるなら、私たちの主イエスは、死んだ自分の肉体を生き返らせる奇跡を含め、どんな奇跡でも起こすことができるということになります。そして、教会は、まさにイエスがそれを行ったと教えています。十分な信仰を持つ者にとっては、その答えで十分です。しかし、ほとんどの人は、信仰には状況証拠の助けが必要なのではないでしょうか。

私も以前は、復活に対して懐疑的でした。イエスが十字架から降ろされた時、仮死状態であり、墓の中で意識を回復したのではないかと思っていたのです。けれどもそのようなことは、ほぼ不可能だと知りました。当時のローマ兵は、罪人の処刑方法を熟知しており、ローマ帝国の磔刑を生き延びるには、本当に奇跡が必要だったからです。

スパルタクスと6000人の仲間の運命

では、磔刑(たっけい)とは、一体どのような刑罰だったのでしょうか。磔刑は特に、ローマ政府に反抗しようとする、下層階級や奴隷を対象にした処刑方法でした。この処刑法は、ローマ市民には適用されませんでした。

よく知られている磔刑に処された人物に、スパルタクスと彼の6000人の仲間の話があります。

紀元前73年から71年にかて、奴隷階級であった剣闘士スパルタクスはローマ政府に対し、反乱を起こしました。(剣闘士は、当時ローマ社会の奴隷階級に属していました)しかし、反乱奴隷のスパルタクスとその仲間6000人は、ローマ軍に鎮圧されてしまいます。ローマ軍は、ローマとカプアの町を結ぶ道路沿いに、十字架の延々と続く列を作ると、この十字架にスパルタクスとその仲間6,000人を磔にしたのです。

磔刑が選ばれたのは、拷問と処刑が一体となったシンプルな装置だったからです。また、その方法が簡単なため、多数の犯罪者を一度に処刑する際に便利だったからです。

ローマ帝国は、すでにスパルタクスとその仲間6,000人を十字架にかけることに成功していました。イエスと他の2人の罪人を処刑することなど、簡単な作業だったでしょう。ローマ帝国の処刑で犯罪者が生き残ったという記録は、これまで発見されていません。最も可能性の高い理由は、誰も生き残らなかったからです。

十字架刑から生還することは可能だったのか

磔刑では、罪人が死ぬまで、兵士が十字架の前で見張りをしていました。通常、罪人が死ぬまで、2、3日かかると言われていました。ローマ軍が早く罪人を死に至らしたい場合、罪人の足を鉄の棍棒で折り、体を支えられなくし、窒息死させることもありました。

また、見せしめとして、罪人は通行人や民衆から見える場所で磔にされました。罪人が十字架になすすべもなくぶら下がっていると、ハゲワシやカラスが飛んできて、目玉をつつくこともあったと伝えられています。

ローマ法では、もし罪人が生き延びたり逃げたりすると、見張りの兵士が罪人の代わりに磔にされることが明記されていました。この法律により、兵士が任務を怠らないようにすることができたのです。

イエスの場合、十字架にかけられた後、わずか3時間後に亡くなりました。そのため、見張りの兵士は、イエスが本当に死んだかどうかを確認する必要がありました。死亡を確認するために、兵士はイエスの脇腹から心臓に槍を突き刺したのです。例えイエスが、鞭打ち、茨の冠、釘の傷による大量の出血を生き延びたとしても、心臓を貫く槍は、確実にイエスを殺したに違いありません。ヨハネは十字架のそばに立って、その一部始終を見ていました。ヨハネの福音書には、間違いなく心臓を貫かれたことが記されています。

槍で刺されたイエスの心臓

聖ヨハネは、兵士が主の脇腹を刺した時の様子を、以下のように描写しています。

「しかし、兵士の一人が槍で(イエスの)脇腹を刺したので、たちまち血と水が出た。それを見た者が証言している」(ヨハネ19:34-35)。

ここで私が疑問に思うのは、ヨハネが見た「水」とは何だったのか、ということです。ウィリアム・D・エドワード達による(William D. Edwards, MD; Wesley J. Gabel, MDiv; Floyd E. Hosmer, MS, AM)共同論文では、イエスの体から流れ出た水は、おそらく漿液性胸液(しょうえきせい きょうえき)と心嚢水(しんのうすい)だったとあります。 この論文はThe Journal of the American Medical Association.に掲載されています。

しかし、この論理が成り立つのは、イエスが右側から突き刺された場合のみとなります。福音書は、イエスが右側から刺されたのか、左側から刺されたのかについて、何もふれていません。しかし、興味深いのは、イエスと思われるトリノの聖骸布に描かれている人物は、右側から刺されているのです。

これは偶然の一致なのでしょうか。この布の不思議な事実は、ひとつだけではありません。トリノの聖骸布には、科学的に説明できない不思議な特徴がたくさんあるのです。

いずれにしろ、ローマの処刑が徹底していたことを考えると、ローマ兵が私たちの主イエスを処刑し損ねたとは考えられません。ローマ兵に拷問され、十字架にかけられたイエスが、死んだのではなく、ただ首をたれていただけだ、というような考えなどは検討にも値しません。

また復活祭で使徒たちが見たのは、復活した肉体ではなく幻覚や幽霊だった、使徒たちが復活の物語を捏造し大規模な詐欺を働いた、復活を説明するために作られた話だった、などの説が存在します。私はこれらの説も検証してみました。この記事で私の調べた結果を、すべて説明する時間はありませんが、簡単に言うと、他のすべての合理化された理論も精査に耐えられないということです。

知れば知るほど、主イエスの復活を疑うことは難しいからです。

Image: Two sheep by fsHH

(2)へつづく

聖金曜日と主の受難

受難の金曜日、すなわち、聖金曜日、

「最後の晩餐」を記念する「聖木曜日」が終わり、「受難の金曜日」がやってきました。受難の金曜日は、イエス・キリストの受難と死の日であり、聖三日祭(四旬節の最後の3日間、「聖木曜日」「受難の金曜日」「聖土曜日」からなる)の中で最も厳粛な日です。英語では グッド・フライデーと呼ばれますが、その由来には諸説があります。キリスト教では、全人類の罪を償うため、完全な善であるキリストが死に至るまで従順であったことを信じ、救いの日である主の磔刑を記念する日です。

聖金曜日の典礼

聖金曜日は、祈りと断食の日です。以下に、世界のカトリック教会が聖金曜日にどのような様子なのか、そのほんの一部をご紹介します。

Christians In Jerusalem Walk In A procession To Mark Good Friday | Good Friday 2023 LIVE | News18

エルサレムにて

エルサレムでは、毎年多くのキリスト教の聖職者や信徒が集まり、イエスが磔にされる際に通ったという伝説の道「十字架の道行」(Via Dolorosa)を祈りながら歩きます。行列が特別な祈りと瞑想のために立ち寄る14の場所は、聖書や書き残された伝統の中で、イエスに関連する場所です。ヴィア・ドロローサ、十字架の道行の行進は、フランシスコ会の修道士によってエルサレムで始められました。それ以来、フランシスコ会は毎週金曜日に十字架の道行をしています。ニュースの生中継では、今年も多くの人が参加している様子が映し出されていました。また、多くのフランシスコ会修道士が、十字架の道行を歩いている様子も見ることができました

バチカンにて

April 7, 2023, Celebration of the Passion of the Lord Pope Francis

バチカンでは、サンピエトロ大聖堂で聖金曜日のミサが執り行われました。小カプチン修道会の司祭で神学者のラニエロ・カンタラメッサ枢機卿が説教を行いました。カンタラメッサ枢機卿は、ニーチェを例に挙げ、神が「死んだ」とすれば、かつて神が占めていた中央の場所に鎮座しているのは、たいてい人間自身であると説明しました。また、完全な善である神に支配されるのではなく、不完全な人間に支配されることがいかに危険であるかを指摘しています。特に、脱クリスチャン化した欧米諸国は、無神論の行き着く先である相対主義やニヒリズムのブラックホールに魂を奪われる危険性があると警告しています。

米国ワシントンD.C.にて

米国ワシントンD.C.の無原罪の聖母バジリカでは、ウォルター・R・ロッシ師によって典礼が行われました。ロッシ師は、「十字架の道行」の歴史について説明し、それに関する愛読書(聖アルフォンサス・リグオリ著のもの)についても語っています。また、十字架の道行でよく歌われる14世紀の伝統的な聖歌「Stabat Mater」の2節(英語訳)を歌ってくれました。そして、聖母マリアの悲しみを例えとし、凶悪犯罪や戦争で子供を失った母親の悲しみに言及しています。そのうえで、聖母マリアは私たちを守ってくれる存在であることを強調しています。そして私たちが、最後までキリストに寄り添うことができるよう、聖母マリアに願い締めくくっています。

日本の東京にて

東京の聖マリア大聖堂で、菊池功大司教が、主の十字架を見出す主の受難日は、私たちの信仰の原点であると述べています。そして、私たちのために苦しんでくださった主の受難に、私たちの心を合わせることを話されていました。さらに、十字架のそばにとどまり、苦しみの先にある真の栄光と希望への道を見出した、聖母マリアに倣うよう励まされています。最後に、教皇のため、教会に仕えるすべての人のため、トルコ南東部の地震の犠牲者のため、医療関係者のため、戦争で苦しむすべての人々のために祈りをささげています。

ロザリオの悲しみの秘儀を祈る

私はロザリオを祈るとき、キリストの十字架上の死で終わる「悲しみの秘義」(通常火曜日と金曜日に祈る)は、昔から一番苦手です。主が残酷な扱いを受け、処刑されるまでのストーリーの「リアルさ」に、いやな気分になるからです。

そんな時は、「キリストは私たちを愛して死んでくださった、私たちに救いをもたらしてくださった」という思いに集中するようにしながら、ロザリオを祈り続けています。多少暴力的な映画などを見ても、嘘っぽく見え、平気なほうなので自分でも不思議に思います。もしかしたら、恐ろしくて嫌だと感じているのは、自分の罪の重さなのかもしれません。

私は自分の罪について、十分に意識できているのだろうかとよく考えます。キリストの片側で十字架につけられた「良い泥棒」のように、もう片側の泥棒に「私たちは自分の行いの報いを受けています」(ルカ23:41)と言うことができるのだろうか、と。主は、「自分の十字架を背負って、私についてきなさい 」と言われています。

私はキリストが、私の罪を赦し、自分の十字架を背負う勇気を与えてくださるよう、祈りたいと思います。

Image: Reproduction of painting Pieta of Villeneuve les Avignon. The author is probably Enguerrand Quarton. 15. century, Louvre, Paris.

聖木曜日: 最後の晩餐

日曜日の復活祭まで、あと3日となりました

復活祭のまえの「最後の晩餐」を記念する聖木曜日は、古いキリスト教の古い祭日の一つです。「最後の晩餐」である聖木曜日とは、イエスが受難の前に弟子たちと食べた食事(おそらく過越の食事)につけられた名称です。いつはじまったのか、ということについては不明ですが、教会の初期に12人の使徒が「聖木曜日」を祝っていたのかもしれません。

実は、この過越祭を祝うためであった、ということについて、また最後の晩餐について、神学者、研究者、多くの対立する説を唱えています。ここでは、それらの説についてはふれることはしません。しかし、最後の晩餐を記念する聖木曜日(Maundy Thursday)は、ほとんどすべてのキリスト教の教派にとり、重要な意味をもっている、ということは言うまでもありません。

天才画家が描いた 最後の晩餐

「最後の晩餐」は、数多くの芸術家たちも描いています。世界で最も有名な絵画の一つであるのは、サンタ・マリア・デレ・グラッチェ教会にある、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」(1495-1498)です。保存状態が大変悪かったため、現存していること自体が奇跡である、といわれているそうです。

レオナルドの絵では、後にイエスを裏切るユダ(左から5番目テーブル手前の人物)が、金の入った袋を持っているのが見えます。これは、聖書に書かれているような伝統的な描き方ではありませんが、「裏切り者のユダ」と瞬時に理解され、より劇的な効果を生み出しています。

そして、ヨハネです。伝統的には、ヨハネの頭は、イエスの方を向いて描かれます。しかし、レオナルドの絵では、ヨハネの頭(イエスから向かって左)はイエスと反対の方向にかたむいています。これにより、イエスとヨハネの間に空間が生まれ、中央のイエスに注目が集まるという視覚的効果を生んでいます。興味深いのは、イエスだけが後光を浴びて描かれていて、弟子たちには描かれていないことです。

下記に紹介したネリ修道女の伝統に忠実な絵とちがい、この絵からは、使途とイエスの人間ドラマがより強く感じられます。イエスの弟子たちがリアルに描かれていながら、絵全体としては神聖さや神秘性を感じさせます。レオナルド・ダ・ヴィンチの天才ぶりは、本当にすごいですね。

修道女が描いた「最後の晩餐」

レオナルドの絵とよく似た構図で、ドミニコ会修道女プラウティラ・ネリ(1524-1588)もフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラに「最後の晩餐」を描いています。この絵は、彼女のサインが入った現存する唯一の絵です。

ネリ修道女の絵のユダは、聖書に出てくる「皿に手を浸した人」(マタイ26:23)として描かれています。また、ユダはこの絵の中で唯一、後光を浴びていない人物として描かれています。ネリの描写は、レオナルドのように画家の独創性を強調するものではなく、聖書に基づいた伝統的なものとなっています。

当時の修道女が芸術家であったとしても、本の挿絵などの小さな作品しか描かなかったのに対し、この作品は7m×2mの大きな油彩画です。私は、ネリ修道女は、レオナルドの「最後の晩餐」にインスピレーションを受けたのではないか、と思います。レオナルドの絵のお手本があったからこそ、自分の絵をここまで大きくする気になったのかもしれませんね。

哀歌の意味

伝統的に、聖木曜日の朝は、エレミヤの哀歌(ラテン語でLamentationes、ギリシャ語でThrenoi、ヘブライ語でKinoth)の冒頭から数節を歌います。「哀歌」は、象徴的には、メシアが殺された後の世界の状況や、罪に堕ちた魂の状態に関係しています。

ヘイドックスの聖書注解によると、預言者エレミヤは、バビロニアによるエルサレムの破壊に関連する神の言葉を語ったとされています。「哀歌」がエルサレム破壊の前に書かれたか、後に書かれたかは不明です。

聖ジェロームは、哀歌はエルサレム破壊の前、ヨシヤ王の死の時に書かれたと述べています。そうであれば、当然、ゼカリヤ王の死とエルサレムの破壊の際にも、同じ「哀歌」が再び歌われた可能性があったことだと考えられます。

聖木曜日のための古い聖歌

グレゴリオ聖歌はローマで始まり、西欧諸国に広まりましたが、スペインとポルトガルにはモザラビック聖歌と呼ばれる独自の聖歌があります。グレゴリオ聖歌と同様、モザラビック聖歌はラテン語で歌われます。その旋律は、アラビア音楽の影響を受けているともいわれ、哀歌にふさわしい深い悲しみの旋律です。モザラビック聖歌による「哀歌」の豊かな霊的響きを聴くとき、音楽と祈り、信仰の密接な結びつきを感じさせられます。

Mozarabic Lamentations | Holy Thursday, Lectio 1/Gregorian Chant Academy

以下、聖歌の内容を日本語(新共同訳)で紹介いたします。

第一の歌(アルファベットによる詩)

1. なにゆえ、独りで座っているのか
人に溢れていたこの都が。
やもめとなってしまったのか
多くの民の女王であったこの都が。
奴隷となってしまったのか
国々の姫君であったこの都が。

2. 夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。
彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。
友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。

3. 貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き
異国の民の中に座り、憩いは得られず
苦難のはざまに追い詰められてしまった。

4. シオンに上る道は嘆く
祭りに集う人がもはやいないのを。
シオンの城門はすべて荒廃し、祭司らは呻く。
シオンの苦しみを、おとめらは悲しむ。

5. シオンの背きは甚だしかった。
主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し
苦しめる者らを頭とされた。
彼女の子らはとりことなり
苦しめる者らの前を、引かれて行った。

伝統的に、聖木曜日のミサは他のミサと同様に午前中に行われていましたが、第二バチカン公会議以降、夕方に行われるようになりました。わたしの教会では、家族、司祭、病人、死者、そして米国がすべての人間の生命(受胎から自然死まで)を尊重するように祈りました。

四旬節の終わりまで、あと2日となりました。

聖パトリック:ムイルフ『聖パトリックの生涯』 (2)

ムイルフの『聖パトリックの生涯』は、聖パトリックがアイルランドで最初に洗礼を受けた人物のことを語っています。その人は、豚飼いのディクという人でした。ディクに洗礼を授けた後、聖パトリックは、奴隷として働かされていた主人の家へ向かいました。自分を奴隷にした主人に洗礼を授けようと思っていたからです。しかし、パトリックがそこに着く前に、誰かが奴隷の主人に「パトリックは、今、あなたの主人になるために戻ってきた」と言うようなことを告げていました。奴隷の主人は悪魔にふきこまれ、パトリックが主人になるぐらいなら、と全ての自分のもちものを周りに集め家に火をつけました。そして、自殺してしまったのです。

聖パトリックの預言

奴隷の主人の家についたパトリックは、燃える奴隷の主人の家を見ながらしばらくの間、ただ泣き続けていました。そして奴隷主の家族について、神からの預言を残しました。すなわち、この男の息子たちは、他人を支配するのではなく、むしろ、これから先は他人に服従するという言葉を残したのです。

「私は知らない、神は知っている」パトリックは何度か繰り返しました。これは、決して呪いではなく神からの預言だ、という 意味でした。クリスチャンにとって、自殺は最も深刻な罪のひとつであり、悪魔からの恐ろしい誘惑です。奴隷主は神の救いを拒み、悪魔の誘惑に負け、謙遜するよりも、誰かにこの世の財産を捧げるよりも、死を選んでしまったのです。

私は、この伝説は脚色されているとはいえ、もしかしたら事実だったのかもしれないと思います。よくある奇跡の物語ではないからです。救いをもたらそうとしたパトリックが、ただ泣いていただけであり、奴隷主の家族は神から暗い未来の預言を受けたという点が、他の伝説よりも現実的であるように感じるからです。その後、その家族がどうなったかは不明です。けれども、奴隷主の家族に関する、奇跡などの後日談は残されていません。恐らく、聖パトリックの預言通り、不幸な最期を迎えた可能性が高いのではないかと思います。

聖パトリックのお墓

St. Patrick`s Tomb, Downpatrick, Northern Ireland

聖パトリックの墓は、北アイルランドのダウンパトリックにあります。伝説によると、パトリックは生前、自分の遺体を埋葬する場所について遺言を残していたそうです。

パトリックは、彼が亡くなり、彼の遺体が納棺されたら、その棺桶を荷車に乗せ、牛が好きなところに牛車を引かせるようにと言ったそうです。そして、その牛が止まったところが、彼の埋葬場所である、と遺言を残したそうです。人々はパトリックの願いに従い、牛が荷車を引いていった丘の上に行き、そこにパトリックは埋葬されました。そして、その場所を示す目印の石が置かれました。やがて、この場所は巡礼の地として人気を集めるようになりました。

その後、12世紀に聖パトリックの聖遺物はホーリー・トリニティー教会(通称ダウン大聖堂)に移され、聖ブリジットや聖コルバの聖遺物とともに現在に至っています。今でもこの丘は、主要な巡礼地となっています。

一方、聖パトリックの聖遺物がダウン大聖堂にあるという話も、あくまでも伝説であると考えられています。E・セレナー氏によると、彼がどこに埋葬されたのかは誰も知らないということです。

私は、この聖パトリックの墓をオンラインで見ながら、かつて訪れたある町の(小さいながらも歴史あるすでに閉鎖された)、聖パトリック教会のお墓を思い出しました。その教会の裏手には、いくつかのお墓がありました。歴史好きの私は、ある日、興味本位でそのお墓を見に行きました。すると、それらのお墓はその教会の歴代神父たちのもので、その中に30代で亡くなった若い司祭のお墓がありました。30代という若さでしたので、どんな人生だったのだろう、若くして死を受け入れるのは大変なことだったのではなだろうか、と思いました。 きっと聖パトリックのように故郷を離れ、神の意志に従い、無名の聖人の一人になったのでは思います。

四旬節における聖パトリックの祝祭日

毎年、聖パトリックの祝日が近づくと、あと数週間で四旬節が終わるということで、私は励まされます。主に、四旬節の間はできるだけ甘いものを控え、イースターにはできるだけ甘いものを食べたいという、不謹慎な理由からです。

ノビス・オルドの新カレンダーに変更されてから、四旬節中は、あえて祭日が少なくしてあります。苦難の連続だった聖パトリックの生涯を振り返ると、四旬節にふさわしい聖人だな、としみじみと感じました。いつか、アイルランドにある聖パトリックゆかりの地を訪れ、ミサにあずかってみたいと思います。

Image: Saint Patrick statue in Downpatrick

Source for the life of Patrick: Celtic Spirituality. Oliver Davies : PaulistPress, 1999.

Source for St. Patrick’s burial place: Sellner, Edward: Wisdom of the Celtic Saints. Ave Maria Press, 1993.

聖パトリック:三つ葉がシンボルのアイルランドの使徒(1)

今年も「聖パトリック」の祭日、3月17日がやってきました。

カトリックの聖人「聖パトリック」は、アイルランドの守護聖人です。多くのアメリカ人はアイルランドの祖先をもっています。そのような理由もあると思いますが、アメリカでは人気のある聖人です。

聖パトリックの祭日には、伝統的に三つ葉のクローバーが用いられます。これは伝説でパトリックが、理解不可能といわれている神の神秘「三位一体」について人々に、三つ葉のクローバーを用い説明したといわれているためです。実はこの話は、18世紀に創作された話のようです。しかし彼が残した「告白」、そして「コロティクスの兵士に宛てた書簡」から、彼の人生についてほんのわずかですが知ることができます。

聖パトリックの生涯-アイルランドで宣教師となるまでの足取り

アイルランドへキリスト教を広めた聖パトリックですが、生年生没不詳です。恐らく4世紀後半から5世紀初期に英国で生まれた人物である、と信じられています。パトリック自身の回想によると、キリスト教助祭の息子であったが、信心深くはなかったとあります。パトリックがアイルランドで宣教師として導かれるまでの足取りを、こちらで簡単に紹介させていただきます。

奴隷として売られた聖パトリック

彼の人生を、大きく変えることになる出来事が起こったのは、パトリックが16歳ごろのことです。アイルランドからの略奪者にとらわれ、奴隷にされ、羊飼いとして売られてしまったのです。そのような大変な状況に置かれたことについて、彼は彼の著書「告白」のなかで、「私たちは神から離れ、神の戒めを守らなかったのですから、自業自得です。私たちは、どうすれば救われるかについて助言する司祭の言葉に耳を貸さなかったのです」と述べています。その当時の羊飼いというのは、常に命の危険にさらされる過酷な仕事でした。そのような試練をパトリックは、神から罰ではなく、彼の信仰を強めた神の祝福だったと続けています。

神の不思議な導き

アイルランドでの彼の生活は羊の世話をしながら、祈り続けることでした。そのような生活を続けているある日、寝ているときに不思議な声が聞こえ「祖国に帰れる」、と告げられました。そして「見なさい。あなたの船は準備されている」とその不思議な声から知らされます。23歳になっていたパトリックは逃亡奴隷として、200マイル以上を旅し、船着き場へと向かいました。ようやく船までたどり着いたパトリックに、船長は乗船を拒否しました。それでもパトリックは、あきらめずに、神に祈りをささげました。すると神の働きにより、乗船を許可されたのです。

3日後パトリックたちは船を降り、英国に向かい荒野を旅しはじめました。そして28日間荒野を旅をしているうち、ついに食料がつきてしまいました。一緒に旅をしていた船長は彼に「万能で偉大なクリスティアンの神に祈ってほしい」と願います。パトリックが祈ると豚の群れが現れ、彼らは豚を殺し、体力を回復することができたのでした。その日の夜、パトリックは悪魔の攻撃を受け、祈りによって救われたたことも記述しています。

かつてアイルランドの旅は、船のほうが陸地を旅するより安全だったそうです。パトリックの荒野の旅の記述は、今では考えられないような危険と困難をともなっていた、ということの一つの証明だといえます。この後の話ですが、パトリックが自分の故郷に無事到着したのか、それとも故郷への旅をしばらくあきらめ、違う土地にとどまっていたのかは不明です。

フランスからアイルランドへ

そして数年後、パトリックは二度目の捕虜となりました。そして再び脱出し、ついに、英国の両親のもとにもどります。しかし教育を受けず、過酷な経験をしたことにより、普通の生活に戻る難しさを感じます。神からの使命を強く感じたパトリックは、両親、親戚が止めるのも聞かずローマに行くことを決意しました。ローマの旅への途中、聖ゲルマヌスに出会います。パトリックは、ガリア(フランス)のオセールでの聖ゲルマヌスもとで、神職の勉強をすることになったのでした。

そのような時に彼はまた、不思議な導きを受けます。ヴィクトリカスという名前の男がアイルランドからの無数の手紙をもってきた夢をみたのです。神の導きがあり、パトリックはふたたびアイルランドに戻ることを決意します。

その後のパトリックの生涯については、彼の自伝からではなく、伝説として語り継がれてきたものです。歴史事実として述べることができるのは、パトリックがキリスト教をアイルランドに広め、それと同時に文字、ローマ暦、そして教会の伝統を伝えたことです。パトリックにより広められたキリスト教はアイルランド全土に根付きました。彼の死後、アイルランドは、世界で最も最も修道院の多い国の一つとなりました。そして知識の宝庫となり、司祭や修道士、尼僧の養成に貢献しました。ローマから、修道士たちが学びに来るほどになったのです。

奇妙なドルイドの予言

これらの話は、パトリックが没後約150年後に書かれたムイルフ『聖パトリックの生涯』によるものです。

アイルランドに向かう前に、英国で司教となったパトリックは、多くのドルイド教徒と共にいた異教徒の王(ニアルの息子)が支配するターラへと向かいました。
パトリックがアイルランドにやってくる二、三年前から、ドルイドたちは王に「自分たちの島に、自分たちの生活様式を破壊しようとする者がやってくる」と予言し始めました。ドルイドの予言は、その当時の慣習により詩の形式で、パトリックとキリスト教について驚くほど正確に描写しています。

ドルイドの予言

アイルランドに新しい生き方が外からやってくる。
それはまるで王国のようで、遠くから、海を越えやってくる。
それは、我々をいらいらさせる教えをたずさえてくる。
その教えは、ほんの一握りからしか与えられないが、多くの人が受けとることになる。
そして、すべての人から尊敬の念をいだかれることであろう。
王国を転覆させ、それに抵抗する王を殺すだろう。
そして人々を誘惑する。
我々の神々を全て破壊し、ドルイドの慣習を追い出すだろう。
そしてこの王国には終わりがない。
頭を剃った者が、その先端がくるくると丸った棒を持ってここに来るだろう。
彼は穴の開いた頭で、自分の家から胸がむかつく不浄なことを歌うだろう。
家の前にある机から、
彼の家族全員が、「そうなりますように。そうなりますように」とこたえるだろう。

ドルドルイドの予言は本物?

私は神話や伝説、民話が大好きです。その理由のひとつは、私たちに伝わる物語の中には、脚色されたり誇張されたりしているとはいえ、事実に基づいているものがあるからです。

ドルイドは、残酷な方法で人間を生贄に捧げ、未来を予言することで有名でした。明らかにドルイドは、悪魔的な宗教を実践していたのです。仮に、ドルイドの予言が悪魔の力を借りてなされたとします。そうすると、その予言の内容が聖なるものを表現したくない(あるいはできない)悪魔が、日常的な物の名前を用い表現することを、時により、思い起こさせるのも納得がいくと言えます。

ウィリアム・キャクストンが翻訳した『黄金伝説』には、悪魔が 「鍋」と呼ぶエクソシストの聖杯の話があります。もちろん、『黄金伝説』の話が必ずしも歴史的に正しいとは限りませんが、ドルイド教の予言書に出てくる聖なるものの描写は、どれも日常的な物の名前を例えに使用しており、よく似ているように思います。

エクソシストのヴィンセント・ランパート司祭は、あるインタビューで、悪魔は聖なるものについて話すことを避けると述べています。ドルイドの予言では、坊主頭で杖を持ったカトリックの司教が描写されていますが、それは間接的なものです。そして、最後の 「そうなりますように」”May it be so” は、ヘブライ語の アーメンの翻訳である” So be it “と同じ意味となります。

この話は後から創作されたものかもしれませんが、当時のアイルランドの文化的背景を考えると、非常に興味深い予言であると思います。

(2)へ続く

Image: Scenes from the Life of Saint Patrick. National Gallery of Ireland

Source for the life of Patrick: Celtic Spirituality. Oliver Davies : PaulistPress, 1999.

恋人たちの守護者、聖バレンタイン

2月14日は聖バレンタインの祝日で、世界中で愛と恋人たちを祝福する日です。しかし、聖バレンタインとは一体どのような人物で、どうして恋人たちの守護聖人になったのでしょうか。

聖バレンタインの由来

2月14日が聖バレンタインデーになった経緯ははっきりしています。しかし、バレンタインデーが愛の日となった由来は、明確ではありません。

カトリック教会では、敬虔なキリスト教徒として模範的、英雄的な生涯を送った人物を死後、聖人に列することがあります。生きている人が毎年誕生日に表彰されるように、聖人も毎年、聖人の祝日と呼ばれる特定の日に表彰されるのです。聖人の祝日は、通常、その人が亡くなった日です。聖バレンタインは、ローマ皇帝クラウディウス2世(A.D.268-270)の時代に、キリスト教の信仰のためにローマで殉教しました。2月14日に殉教したとされており、この日が聖バレンタインの祝日となっています。(注2)

聖バレンタインとはどんな人物なのか?

バレンタインという名の聖人については幾つかの話があります。ひょっとすると、それらの物語のバレンタインは、すべて同じ人物かもしれません。もしくは同じ名前の聖人が2人、あるいは3人存在しており、その人物のそれぞれの話の可能性もあります。

これは、多くの殉教者が出た初期キリスト教時代、新しい殉教者は、同じ名前の古い殉教者と同じ日に列聖される習慣があったためです。ですから、幾人ものバレンタインという名の人が殉教し、全員が同じ日に祝われた可能性を否定できません。その場合、ある聖バレンタインの物語が、他の聖バレンタインの物語と混同された可能性があるからです。

その中の一つ、聖バレンタインの由来とし、最もよく語られているのは3世紀ローマ、司祭であったバレンタインのお話です。ローマ皇帝クラウディウス2世は、若い兵士の結婚を厳しく禁じていました。結婚を禁じたのは、独身であることが軍人として優れていると考えられていたことと、男性には兵役が義務づけられていたが結婚を理由に戦争に行きたがらなかったため、と伝えられています。聖バレンタインは、若い兵士たちのために、キリスト教とキリスト教結婚式の禁止されたローマで、結婚式のミサを執り行っていたため死刑に処された、と伝えられています。(注1)

歴史家たちの見解

歴史家たちは、この話の信ぴょう性について疑いを抱いています。その理由は、アウグストゥス帝の時代に制定された軍人の結婚式の禁止令は、クラウディウス2世の時代にはすでに廃止されていたためです。

また、バレンタインはイタリアのテルニ出身とされていますが、彼はローマで殉教しています。テルニの聖バレンタインとローマの聖バレンタインは、別の人物なのでしょうか?それとも、一つの都市からもう一つの都市へ移動した同一人物なのでしょうか?真実は誰も知らないのです。(注2)

確かなのは、バレンタインという名前をもつ人物が神の愛のために殉教した日である、ということだけです。恋人たちへの秘密の結婚のミサ、そしてそのために殉教した司祭バレンタインの話は、愛の日にとてもふさわしい話ですね。

諸聖人への祈り

全能なる天主、
主の殉教者なる聖...の天国に生まれたる日をたてまつる我らを、その御取次によりて主のみ名に対する熱愛において強からしめたまはん事を。

参考:チト・チーグレル譯, 彌撒典書,光明社,1949年発行

聖バレンタインの奇跡

この伝説には、彼が捕らえられた後の奇跡の話が続きます。

牢獄に入れられたバレンタイン司祭は、アステリウスという看守と親しくなりました。バレンタイン司祭はアステリウスから、目が不自由なため一人で読むことができない娘ジュリアのために資料をよんでくれるよう頼まれました。ジュリアとも親しくなったバレンタインは、処刑される日、彼女に手紙を残しました。本来なら目が不自由だったジュリアの目では、手紙を読むことなどできません。しかし、彼女の目は奇跡によりいやされ、この手紙を読みことができたのです。彼の手紙には「あなたのバレンタインより」とメモされていました。(注1)

歴史家は、この話にも疑問を持っているようです。バレンタインデーのカードの由来を「説明」するため、都合よく創作された話のようだからです。

一方、非常に古い話ですが、次のような話も伝えられています。

クラウディウス2世の時代、アステリウスという牢番に目の見えない娘がいました。彼女は司祭によって癒されました。そして、アステリウスとその娘は司祭から洗礼を受けました。そして2月14日、三人はローマのフラミニア通りで殉教したのです。(注2)

この奇跡をおこした司祭の名前は、バレンタインだったのでしょうか?それも確かなことは言えません。

聖バレンタインの聖遺物

聖遺物(聖人の骨の一つまたは複数)は人々の信仰の対象であり、聖バレンタインのものとされる遺物も数多く存在します。
例えば、「真実の口」で有名なローマのサンタ・マリア・コスメディン大聖堂には、聖バレンタインのものとされる頭蓋骨があり、花で飾られています。その他には、スコットランドのグラスゴー教会、アイルランド、ダブリン、カルメル会に属するホワイト・フライヤー・ストリート教会、スペイン・マドリードの聖アンソニー教会にも、彼と思われる聖遺物が残されています。テルニの聖バレンタイン(ローマの聖バレンタインと同一人物かどうかは不明ですが)の聖遺物の一部は、イタリアのテルニにある聖バレンタイン大聖堂に安置されています。

これらの教会のなかでイタリア、サンタ・マリア コスメディアン聖堂はカトリックのなかでも、とてもめずらしいメルキト・ビザンティ・カトリック教会です。メルキト派は,カトリック教会の東方教会の一派で、本部はシリアのダマスカスにあります。カトリックメルキト派の司祭は、EWTNのインタビュー「聖バレンタインの人生」のなかで、「私たちの人生と信仰を、真の深い愛で生きるためのとりなし」を願い、聖バレンタインの聖遺物の前で祈ると述べています。

The Life of St. Valentine – A Saint Who Dedicated His Life to Evangelization and Love – YouTube

一方聖バレンタインの守護する恋人たちにとても人気があるのは、アイルランドのダブリンのホワイト・フライアー・ストリート教会です。教会のオフィシャルサイトによると、この教会にある聖遺物は、血で染まった小さな器だそうです。この小さな容器は、1836年にローマ教皇グレゴリウス16世から送られたそうです。

これだけあると、どれかが本物でどれかが偽物であると考えるのが自然です。一方、聖遺物がすべて本物である可能性もあります。前述したように、同じ名前の殉教者は同じ日に祝う習慣があったためです。聖バレンタインとされる聖遺物が一人のものであれ、多くの人のものであれ、それらはすべて時代を超えて、今もなお教会により本物であるとされた聖遺物です。つまり誰の骨であろうと、聖人の骨なのです。

聖バレンタインのシンボル

キリスト教徒でなくても誰もが知っているバレンタインデー。殉教者バレンタインを象徴するアイテムは、赤いバラと小鳥です。そして、聖バレンタインは殉教者のシンボルであるヤシの葉を手に持っています。絵画に使われるシンボルでは、赤は血の色、バラは愛を象徴します。小鳥は幸せな恋人たちを連想させます。もしかしたら、聖バレンタインデーの小鳥のシンボルは、中世に2月14日は小鳥の交尾の日と言われていたことと関係があるかもしれません。 (注2)

聖バレンタインの日は、キリストへ命をささげた人物の神への愛の日がはじまりです。結婚式を挙げた司祭の話は伝説かもしれません。しかし、そのような司祭はきっと存在したのでしょう。聖なる殉教者たちが持っていたキリストへの深く真実な愛を、私たちも少しでももつことができるように祈りたいと思います。

聖バレンタインの頭蓋骨画像:Saint Valentine – Wikipedia 

注1) The Story of Saint Valentine (learnreligions.com)

注2)Valentino, il Santo senza Volto. Ecco perché (e come) lo si celebra (avvenire.it)

キャンドルミサ: マリア様のお清めの日

蝋燭をともして祝う私の大好きな聖燭祭、キャンドルミサが2月2日(木)に祝われました。

以下は、このミサについて、マザーTが使用していたミサのための典礼本の説明を要約した内容です。

この典礼は二部より成り立つ。行列とミサ、すなわち聖祭りである。

行列中の聖歌は喜ばしい御降誕と共に悔悛(犯した罪の悔い改め)の事をも想起するという意味があり、祝別された蝋燭を手にもって行列を行う、この灯された蝋燭はご復活の蝋燭と同様、御降誕の時この世に現れた誠の光明なるキリストの像である。 (1.P566) 

“Candlemas” at the Vatican Catholic News Service

この祝日は、灯したろうそくを使う習慣から「キャンドルミサ」と呼ばれます。伝統的に、クリスマスから40日後となり、二つのことを祝います。一つ目は、クリスマスに誕生したイエス様がモーゼの律法により神殿に奉献されたことです。イエス様はマリア様とヨセフ様の最初の子供であり、モーゼの律法によればすべての最初に生まれる男の子は神に捧げられます。

そして、二つ目はマリアのお清めの祝いです。ふたたびモーゼの律法になりますが、すべてのイスラエル人の婦人は出産した後の一定期間不浄とされ、神殿にはいることを禁じられます。その不浄の期間をすぎると、普通は羊を一頭、鳩を一羽神殿に奉納します。貧しいものは鳩を二羽奉納します。貧しかったマリア様とヨセフ様は、鳩二羽を奉納しました。(1. P565)

これは、どういう意味でしょうか。文字通りですと、イエスは羊と同じように祭壇の捧げものとされる、ということになります。しかし、もちろん人間の赤ちゃんをそのような捧げものにはしません。イエスを神殿に奉献し、かわりに鳩二羽を奉納し、鳩二羽とイエスを引き替えた、という意味となります。

教会の教義では、イエスとマリアは、すべての罪から解放されている存在のため、本来はこのような儀式は必要ありませんでした。マザーTの典礼本においては、「聖母が慣例に従い清めの式にあずかり、御子キリストも聖殿に捧げられたのは、聖母の謙虚さと御子の救世の事業にかかわるということを示されたのです」(要約)(1. P565)と述べられています。

キャンドルミサの蝋燭の祝別

カトリック教会には秘跡と準秘跡がありますが、秘跡について簡単に述べると「目にみえない神の恩恵のしるしを見えるかたちにしたもの」です。カトリック教徒は秘跡により、神の恩恵をさずかることができます。ろうそくの祝別はミサの最初に行われ、司祭に祈りをささげられ、準秘跡となります。ですから、祝別されたろうそくはわたしたちにとり、神の恩恵のしるしでもあり、恩恵が目にみえるかたちで授けてもらえる大事な日でもあります。

秘跡と準秘跡のちがいについて、ここでは詳しくふれませんが、準秘跡には、例えば、聖水、祝別された塩、メダイそれからロザリオなどがあります。準秘跡は、伝統的教会の教えにより定められています。ですから、お気に入りのコーヒカップや本は、準秘跡とはならない、ということです。

シメオンの歌「この(しもべ)を安らかに去らしてくださいます」

Nunc Dimittis (with ‘Salva nos’), the Canticle of Simeon – Gregorian Chant
Petrus Josephus

行列は、イエスが神殿に奉献された日、その場にいたシメオンの賛歌ではじまります。

このシメオンという人は、「メシアを見る前に死ぬことはない」と神からメッセージを受けました。神を信じ、老人になるまでメシアを待ち続けた人です。シメオンは、よくイエスを奉献したときの司祭と勘違いされますが、司祭でなくメシアを待ち続けて神殿を訪ねた老人です。シメオンはメシアに出会ったとき、ルカによる福音書の2章にある賛歌(カンティクル)を歌いました。

シメオンの賛歌は、聖務日課の一つ、コンプリンと呼ばれ、夜の祈りに歌われます。シメオンの祈りは「今こそ私を去らしてください」とも考えられていますが、彼がどちらの意味で神を讃えたのか聖書には書かれていません。私には、メシアが来た、そして神が約束を果たすということに、喜びの響きと少しの疑いも感じられない翻訳「この(しもべ)去らしてくださいます」がシメオンらしいのではと感じます。

取り除かれた「罪の悔い改め」の祈り

続いて二部のミサです。マザーTの1949年発行の典礼本には、罪の悔い改めの想起とありますが、実は現在のミサに、この美しい祈りの部分はすでにありません。これは1950年代、少しずつミサが短くなっていったからです。以下は、キャンドルミサの中の「罪の想起」であった「懺悔」の部分です。

主、願わくは起きて我らを助けた(たま)へ、主の御名(みな)の為に我らを救い(たま)へ。

天主よ、我らが(おの)が耳に聴けり、我らの先祖は我らに語れり。

願はくは聖父と聖子と聖霊とに光栄(さかえ)あらん事を、はじめにありし如く今も何時(いつ)も世々に至るまで、アメン。

主、願はくは起きて我らを助けた(たま)へ。主の御名(みな)のために我らを救い(たま)へ。 (1.P571)

キリスト教徒は、罪の悔い改めにより救われると信じています。得にカトリックには、告解、もしくは神との和解、とよばれる秘跡があります。これは司祭に罪を告白し、司祭が神の名において悔悛を赦すというものです。つまり告解後、人は罪から解放され、魂の救いに欠かせない恩恵をさずかることができるのです。罪の悔い改めの祈りが、なぜ懺悔のアンティフォン(交唱)が、なくされたのかは不明ですが、個人的には、この短いながらも大切な神への祈りが、いつか復活することを望んでいます。

信仰の炎を(とも)すろうそく

今年のキャンドルミサですが、平日にもかかわらず沢山の人が参加していました。私の教区の司祭はお説教のなかで、「かつて電気がなかった時代、どれだけ、ろうそくの灯が明るく感じたのか。想像してみましょう」と述べていました。かつて私は、神の光を知らず、自分が暗闇にいることにすら気が付いていませんでした。ろうそくの灯は、精神を照らすキリストの光でもあります。現代は24時間明るく照らされています。けれども、精神の暗闇はますます濃くなっているのではないでしょうか。ミサの最後に、「信仰の炎を灯しなさい」と司祭は言いました。一見些細なように見える光であっても、真っ暗な闇のなかでは大きな助けになります。心のなかに、「信仰」という名の炎をともしていけたら、と思います。

  1. 参考:チト・チーグレル譯, 彌撒(ミサ)典書(てんしょ),光明社,1949年発行